受 難


三、

 床板をぎしぎしと軋ませ、保智は廊下の窓から見える我躯斬龍に目を遣った。

「まだ明かりがついてるな。我躯斬龍」

 我躯斬龍の四隅を照らす篝火がちろちろと闇に浮かんでいる。
 隣を歩いていた圭祐は、隊服を抱えながら相槌を打った。

「ほんとだ。誰か使ってるのかな。あの篝火、なんだか四つの人魂みたいだね」

 圭祐はそう言ってから、ふと何か思い出したように振り返る。

「ねえ保くん、西廊下の怪っていう噂があるの知ってる?」
「西廊下の怪……?」

 保智は訝しげに眉を寄せて圭祐を見下ろした。

「最近の噂か?」
「ううん。僕が入隊する前からあったらしいよ。知らなかったんだ?」

 圭祐よりも前に入隊してこの衛明館に居座っているが、そんな噂は聞いたことがなかった。興味がないというより怪談が苦手なのだ。図体はあっても怖いものは怖い。
 だが、そんなことは口が滑っても言えたものではなかった。

「……聞いたことはないけど」
「九尾の猫が足元をすり抜けたり、目のついた人魂が天井から見てたり。一番体験者が多いのは、後ろから大きな黒い影が追ってくるっていう話」
「口裏合わせてみんなで作ってるだけじゃないのか……」
「僕もついこないだ体験したんだよ」

 頬を引き攣らせた保智の横で、圭祐はにっこり笑って廊下の先を指差す。

「そこの角を曲がろうとした時に、後ろからひたひたって音がしてね。振り返ると誰もいなかった。それでまた歩き出すと、ひたひた、ひたひた、っていう───」
「分かった、分かったからもういい!」

 保智は廊下の窓をぴしゃっと閉めてその場に固まった。腕が総毛だっている。

「どうしたの?」

 顔面蒼白で目を泳がせている保智の顔を覗き込んで、圭祐は心配そうな目を向けた。

「ちょ……ちょっと寒くなってきたから窓閉めただけだ……」

 圭祐の腕を乱暴に掴み、後ろを振り向くなと自分に言い聞かせて足早に西廊下を去ろうとする。
 ひたひたという圭祐の声が耳に残り、保智は唾を飲み込んで角を曲がった。


「おや危ない」
「うわーッ!!」
「わぁっ!」

 廊下を曲がると黒い影が立ちはだかり、保智と圭祐は揃って短い悲鳴をあげた。

「そんなに驚かれると西廊下の怪を思い出すネェ」

 角から出てきた黒い影が明かりに照らされて、ようやく姿が見える。
 黒服の青年が立っていた。

「か……か……甲斐っ! 驚かすなよ!」
「いま悪趣味なシャレを思いついたヨ。『西廊下の甲斐』」
「ていうか足音消して歩くな!」
「消してないってば。なんだヤス、幽霊にでも会ったみたいな顔して」

 まさに怪談の話をしていたところで驚かされ、保智は落とした隊服を拾って息を吐いた。
 圭祐は保智の悲鳴に驚いて声をあげただけで、足音は聞こえていたらしい。甲斐を見上げて首をかしげ、もう一度足元から眺め直して反対側に首を曲げた。

「甲斐くん、なんかいつもと雰囲気が違うね」

 圭祐が不思議そうに尋ねると、甲斐は圭祐の額に軽く指を当てる。

「ここに鉢巻がないからデショ。私用で出かけてきたから」
「あ、そうか。鉢巻してない時ってあんまり見たことなかった。それに服が黒一色だから大人びてて見違えちゃったよ」
「惚れた?」
「僕が女だったら惚れたかな」
「可愛いこと言うネェ。それに比べてヤスはどうしようもないナ」

 保智は幼馴染の小馬鹿にしたような顔と目が合い、怪談などすっかり忘れて甲斐から逃れる為にこの場を離れようと、圭祐を促した。

「圭祐、湯冷めするから戻ろう」
「ああ、うん。甲斐くんお疲れ様。お風呂空いてるよ」

 なかば保智に引っ張られるようにして甲斐とすれ違った圭祐は、怪談の続きをしようとしたところで再び声を上げそうになった。
 圭祐の腰に何かが触れ、ふわりと体が後ろへ浮く。

「ケースケの髪、いい匂いだネェ。いつも結わない方が綺麗なのに」

 圭祐の細い腰を掠め取った甲斐は、背後から抱えたままその髪を襟足から指で梳いた。一寸遅れて保智は振り返り、相棒が憎たらしい幼馴染に抱えられているのを目の当たりにしてぎょっとする。

「甲斐! 何やってんだお前っ」
「髪触ってるだけだヨ。ねぇケースケ」

 片腕で易々と腰を抱きこみ、梳いていた髪を持ち上げてうなじを晒す。湯上りで白さに薄紅がかった襟足は、誰が見ても女のように思えるほどの細さだった。

「うなじに黒子があるんだネ。これは色っぽい」

 甲斐は平然と首に顔を寄せ、黒子に口付けた。圭祐の肩がぴくりと跳ね上がる。

「女の体に黒子があると口付けたくなる変態性欲があって」
「いい加減にしろっ!! 圭祐は女じゃないんだぞ!」

 そんな事は言われなくても分かってると言いたげな視線を圭祐の首からよこされ、保智の頭は火を噴いた。



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