受 難


ニ、

「せっかくだから僕も背中流してもらいたいな。いい?」

 保智が髪を洗い終わると、圭祐は自分の手拭いを持ってくる。

「え? ああ」

 さっき洗ったんじゃないのかと言おうとしたが、圭祐も誰かに背中を流してもらうのは久しぶりなのかもしれない。手拭いを受け取って椅子を交替した。
 しかし、いざ背中を洗おうとすると否が応でも白い背中を見ることになる。
 洗った圭祐の髪は後頭部でひとつにまとめてあり、細い項が背中へすっと伸びていて、女の背中だと錯覚しそうになった。

(俺が変態みたいじゃないか……っ)

 手拭いを握ったまま震える手が圭祐の背に触れると、それだけでなぜか心臓が飛び上がる。何も考えるまいと目を逸らして洗い始めたが、どうにも手拭いから伝わる感触が柔らかくて力が入らなかった。

「もうちょっと強くていいよ」
「力入れると痛いかと思って……」
「平気平気」

 どの程度までなら大丈夫なのか判らないまま、もう少し強く擦ってみる。ちょうどよかったのか、圭祐が気持ちいいねと声をかけてきた。
 だが保智は圭祐の肌が赤くならないようにひたすら腕の力加減と格闘している真っ最中で、返事をするのも忘れている。

「ありがとう。もういいよ」

 湯船に入る前からのぼせそうな頭に、圭祐の満足そうな声が届いた。
 湯船に桶を突っ込んで圭祐の肩上まで持っていく。

「保くんが嫌じゃなかったらだけど、たまに背中流し合わない?」

 その瞬間、保智は持っていた桶をひっくり返し、圭祐の頭から湯をかけてしまった。

「わ、悪いっ。大丈夫か?」

 圭祐はぷるぷると頭を振って水気を飛ばすと、顔に張り付いた髪を掻きあげて息を吐く。

「ぷは……びっくりした」
「悪気があったわけじゃないんだ、手が滑って」
「うん、大丈夫」

 言い訳の常套句を口走った保智を咎めもせずに、圭祐はおかしそうに笑って桶を拾った。
 身体を流すと、揃って湯船に浸かる。
 保智が端に座ると圭祐もそばに座ったので、広い風呂の半分以上は空いていた。



「あ、桜の花びらが入ってきた」

 月明かりで照らされた窓から、桜の花弁がちらちらと湯船に落ちてくる。

「桜湯だね」
「そうだな」

 男同士で桜も風情もあったものではないが、圭祐が言うと不自然さがなかった。桜は圭祐の好きな花だと知っているし、それは桜に特別な思いがあるからだとも知っている。
 保智は檜の縁に頭を乗せて天井を見上げた。

「……さっきのことだけどさ、俺はいいと思う」

 独り言のように呟いた相棒に、圭祐は形のいい眉を上げて見返す。

「さっきって?」
「だから、圭祐はそのままでいいって話」

 唐突にぶっきらぼうな物言いをする時の保智は、怒っているか恥ずかしい時のどちらかだった。今はどちらの心境なのか計りかねて圭祐が何も言わないと、また無愛想な顔が喋り出す。

「お前はそのままでも充分腕が立つし、気も利くし、俺は相棒が今の圭祐でよかったって、正直思う。だから変わりたいとか、そういうのは気にしなくてもいいんじゃないか」

 そう言ってから、恥ずかしい事を口走ったかもしれないと喉を詰まらせた。
 圭祐は放心したように保智の顔を見つめ、ややあってふわりと顔をほころばせる。

「そうだね。僕も保くんが相棒でよかったよ。ありがとう」
「いや……」

 個人的な意見だから、と付け足そうとしたが、目が合った圭祐が嬉しそうに顔を火照らせていたので結局言わずに終わった。

「保くんあんまり胸の内とか悩み事とか話してくれないから嬉しいな」

 保智は自分の事を話すのが苦手で口下手なだけで、口が達者ならいくらでも喋っている。
 気恥ずかしさを紛らわす為に湯で顔を拭い、保智は先に出ると言って上がった。

「そうだ。僕もさっきのことだけど、また背中流し合いしようね」

 戸を開けようとした保智の手が足より先に止まり、そこに額を打ち付けて立ち止まる。

「……あ、ああそうだな……」
「嫌? だったら遠慮しないで言ってくれていいよ」
「いや、嫌じゃない……。嫌じゃないよ、大丈夫」

 何が大丈夫なのか自分でも分からない。



 脱衣所に上がると、さっぱりしたはずの体は重くて疲れているようだった。
 しばらく棚に寄りかかって一息ついていると、圭祐が湯船から上がる気配がしたので慌てて着物を引っ張り出す。

「あれ、まだ着てなかったの? 湯冷めするよ」
「のぼせただけだ」
「そんなに熱かったかな、今日のお湯」

 圭祐は体を拭いてから浴衣を身につけ、のろのろと着ている保智を促した。

「もうすぐお風呂入りに来る人で混むし、西側の廊下から戻ろうか」



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