の塔


二十三、


 そうして長い長い歳月が過ぎ、いつしか隠密衆は豺狼の群れと畏れられてその名を再び不動のものにした。
 いつの時代にも飛び抜けて腕の立つ者が出てくる。人材に恵まれ、黄金期と持てはやされるほどに組織は確立し、潮時を感じて浄正は四十四で前線を退いた。
 それからは悠々自適の隠居生活に身を置いているが、野良犬の存在を忘れた事は一度たりともなかった。
 あの男は何だったのか、今でも分からない。

 とある日、城下町を歩いていたら穂積にばったり出くわした。
 引退して以来なので四年ぶりになる。穂積も浄正の代で隠密衆の担当を外れ、大老に昇格していた。
 徳川御三家の一、尾張家の嫡男をしばらく江戸城で預かる事になり、剣術指南役を探しているのだと穂積は言って浄正の肩を叩く。

「ここで巡り会ったのも縁、千早丸様の剣術指南役を務めて頂けまいか」
「私ですか。断る理由はありませんが、そんな簡単に決めてよろしいんですかね?」
「浄正殿以上の適任などおらん。いやいや、ご邸宅まで行く手間が省けた」

 ばったり会ったのが縁と言いつつ、最初から自宅へ来るつもりだったらしい。
 剣術指南は構わないが城へ行くのが嫌だとぶつぶつ零す浄正に、穂積は少し茶でも飲まないかとそこらの茶屋へ進んで入っていった。

「浄正殿。今の時世をどう思われる」

 縁台に腰掛けた穂積は往来の流れを見ながら、すっかり皺の多くなった目元を細める。

「平和ですな。我々の時代はもっと荒んでいた。あの当時に比べれば謀反もかなり減りましたし、特に江戸ではつまらぬ犯罪が減ったように思います」
「左様。これは貴殿の功績によるものだ。時代を戦った者の功績は十年、二十年と後になって初めて形になる。御父君に次期御頭だと紹介された時、私は貴殿の傲慢さを懸念した。若さゆえの力は漲っていたが、国を背負う覚悟が見えなかったのだ」

 父が引退する三ヶ月前、穂積に引き合わされた。自分は十八になったばかりで、組織を率いるのが楽しみだった記憶がある。
 あの頃自分が抱いていた理想や目標は悉く野良犬によって叩きのめされたが。

「どうすればこの若い大将に自覚を持ってもらえるか。失敗を多く学ばせれば自惚れずに育つであろうか。いろいろ考えてな。犬を一匹宛がってみる事にした」

 犬など穂積から貰っただろうか。
 犬───?

「恐れを知らない貴殿が人生に躓いた時、どう立ち上がるのか見たくてな」
「……穂積様、それは」
「野良犬を放ったのはこの私だ」

 思わず立ち上がって穂積を凝視する。茶を持ってきた店の娘が驚いてよろけ、盆を地面にひっくり返した。
 度重なる遠征での屈辱を、穂積は何食わぬ顔で聞いていたのか。
 野良犬を仕留められずまたも逃したと項垂れる自分に、遠征そのものは失敗していないと労いの言葉をかけ、時には格老から口汚く詰られる自分を擁護してくれもした穂積が、野良犬を操っていた張本人だと?
 そのせいで多くの若い隊士が無駄に命を落としたのを知らないわけではあるまい。

「……あなたは、ご自身のなさった事の罪深さを分かっておいでか」
「重々承知しておる。内府にありながら幕府を脅かし、その盾である隠密衆を滅ぼす勢いで追い詰めた。これほどの重罪はあるまいな。だが結果的に貴殿は自惚れる事なく組織を守り、建て直し、遂には最強の番犬へと成長した。野良犬が消えてからの貴殿は人が変わったようにキレが良くなり、遠征では鬼と呼ばれるほどに畏れられもした。宿敵がなければこのような結果には至らなかったであろう」

 見くびられたものだ。
 結果など誰にも分からない。野良犬がいなかったとして、自分が成功しなかったという根拠もないはずだ。
 そもそもあんな狂犬をどこから連れてきたのか。
 体力や筋力から察するに恐らく年は自分とそう変わらない奴だっただろう。
 あれほど腕の立つ者なら隠密衆に入れてもらいたかった。

「野良犬の正体はどこの誰なんですか? 私には知る権利ぐらいあるでしょう」
「そうだな、もう時効だからよろしかろう」

 穂積の口から出た名に、浄正はそれきり言葉を失った。
 勧められた団子にも手をつけずその場を立ち去る。
 吐き気がした。いや、怒りか。
 なぜあの男が───理解できない事が山のようにある。
 一体、どういう仕掛けだったのか。




 懐刀の鞘に彫り込まれた葵御紋を指でなぞり、浄正は鼻で笑った。

「お前が野良犬だったとは恐れ入ったよ。瀞舟」

 ちろりと酒を舐めた瀞舟の目がこちらに向く。室内は燭台ひとつの薄暗闇。
 今になって、その眼光がかつて何度も見てきたあの目だと悟る。
 どうして気づかなかったのだろう。野良犬が瀞舟だなどと微塵も疑わなかったから、盲目になっていたのか。こいつに自尊心を木っ端微塵にされ続け、こいつに遠征での愚痴を吐いていた自分はどれほど滑稽に映っただろう。まるで道化師だ。

「面白かったか? 十三年も、よくもまあ付き合ってくれたもんだ」
「半分は私の意思だが、半分は穂積様に弱味を握られての事だ」
「弱味? 華道の宗主が物騒だな。何かしたのか」

 ここまで知ったら瀞舟が何をしても驚きはしないが、弱味を取引に使われていたとは瀞舟らしくない。そんな隙がこの男にもあったのかとおかしくなる。

「私の父は旗本平泉公の元、無礼討ちにされた」
「覚えてる」
「その平泉が後年、目撃者の一人も見つからずに一族ごと抹殺されたのを穂積様が目をつけられてな。樹に犯人を特定するよう依頼したのだそうだ」

 浄正の知己でもある水無瀬 樹は江戸では名の知れた呪術師だ。幕府は元より大名旗本など大物の依頼主が多い。というよりも依頼料がべらぼうに高く、庶民などには手の届かない相手だ。
 穂積が樹に依頼したという事は、当時の諜報では犯人特定に至らなかったわけか。自分はまだ隠密衆を率いていなかった頃なのでその事件については何も知らない。

「そのせいで犯人が私であると知れてしまってな」

 浄正はつまみかけた煮物を箸から取り落とし、呆れ顔で瀞舟を見た。

「旗本を手にかけたのか……? あの当時お前は二十歳そこそこで、親父さんの跡を継ぐって時に何やってんだ。報復だって他にやりようがあっただろ」
「報復ではない、粛清だ。平泉はかつてより諸所で無礼討ちを行っていた。権力を笠に蛮行を繰り返し、裏では汚い金を転がして幕府に取り入っていたのだ。そういった者達が横行するのも時世の流れとはいえ、溝鼠の手垢に汚れた(まつりごと)の世に生きる事ほど馬鹿らしいものはなかろう。私もその先家督を継いで己の一族を築き上げていかねばならぬ。つまらぬ世には身を置きたくなかったのだ」



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