焔の塔
ミャオ、という猫の鳴き声で我に返った。庭石に乗った三毛猫がこちらを見ている。 こめかみから顎へ汗が伝い、何故こんなに息を切らしているのか漠然と周囲を見渡した。 畳に飛び散った血。 力なく横たわる皓司は額と口端から血を流し、荒い息で虚ろな目を宙に向けている。 その上に圧し掛かっている自分が何をしたのか、俄かには理解できなかった。 ただ、壊したのだという事だけは分かった。 のろのろと身を起こし、縁側まで後退って尻をつく。 どっと脂汗が噴き出てきた。 「皓司───」 名を呼ぶも、皓司は苦しそうに全身で息をするだけで返事はない。 白い生肌には無数の古傷があった。幼少の頃から身体を鍛える為に鍛錬してきた証。右肩から胸にかけて、まだそれほど古くはない深傷が斜めに走っている。一歩間違えば右腕が落ちていただろうその傷跡を、皓司は左の手で隠すように抱きかかえた。 ぽう、と廊下の先に灯りが浮かぶ。 はっとして振り向くと、駿河に行っているはずの当主がそこにいた。 瀞舟は浄正がいる事には驚かなかったが、荒れた室内で着衣の乱れた息子が血まみれになって横たわっているのを見止めると、珍しく眉間に深い皺を刻む。 「合意には見えぬが、気に障る事でも言ってお主を怒らせたか」 「違う……皓司は何も」 「では何なのだ」 暴力を振るっただけでなく、身体までも陵辱した。 理性が飛んでいたなど言い訳にもならない。これではまるで獣だ。 「……八つ当たりした。すまん…」 強烈な拳が飛んで来、庭に吹っ飛ばされる。庭石に背をしたたかに打って息が詰まり、前のめりに噎せ込んだ。 「よくよく物の道理の分からぬ奴よ」 手元に刀を放り投げられる。 「弱者を虐げたところで憂さが晴れるのは一時、己を蝕むものは何ひとつ消えはせぬ。これ以上私を失望させてくれるな、浄正」 己を蝕むもの。 瀞舟は理解している。だから彼と話がしたかったのだ。 砂利に両手をつき、もう二度とここへは来ないと詫びた。瀞舟は部屋に足を踏み入れ、息子に羽織をかけて障子をぴしゃりと閉める。 「頭が冷えたらまた参られよ」 湯を沸かして持ってきてくれた父に、自分で手当てできると断って部屋を出てもらう。 鏡を見ると目の下は鬱血して青痣になり、唇は紫色に腫れ上がっていた。首には指の跡。肩に噛み傷のような歯型もついている。内腿を伝って膝に流れた血は乾き、鈍く疼痛を訴えてくる腹と腰に眉を顰めた。 生まれて初めて浄正が怒ったのを見た。 子供の頃からもう一人の父親のように接してくれ、夜祭や花火にも連れて行ってくれた。 どんなに仕事の憤懣を抱えていようと自分の前ではそれを隠し、自分もまた浄正の強く優しい面しか見ていなかった。 あの人は、強い人ではなかったのだ。 必死で弱さを隠し、血の涙さえ流せず、ひとり高い場所に置かれている。 そこから飛び降りたくて、けれど飛び降りる事は許されず、誰も理解してくれない。 「父上……浄正様は、孤独なのですね」 障子越しに声をかけると、父は笑って「それが頂点に立つ者の定めだ」と言った。 「私は見誤っておりました。浄正様の強さに惹かれ、あの背に追いつきたいと願い、いつか浄正様に認めて頂ける剣士になりたくて今日まで剣術に励んできたつもりです」 「意思が変わったか」 「いいえ、目標が変わりました」 ぱしゃりと手拭いを桶に浸す。薄紅色に染まった水に自分の顔が映った。 「私は、浄正様の右に立つ者になりたい。あの御方はご自分に盲目です。私が目となり刃となり、歩む道を違わぬよう隣で叱咤できる存在になりたいと思いました」 隠密衆に入りたい意思は変わらない。だから父に今も厳しい稽古をつけてもらっている。 だが、浄正への憧れはなくなった。 代わりに対等な存在になりたいと思った。 その為には一にも二にも腕を鍛えねばならない。 誰よりも強く、浄正をも凌げるほどに。 |
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