焔の塔
二十一、
秋の暮れ、神経症の末期で除名・死亡した隊士は二十名になった。
これで綺堂と安西以外、現存隊士の中で野良犬を見た事のある隊士は一人もいなくなる。わずか半年程度で、隠密衆において野良犬の存在は伝説になったのだ。
怯える者がいなくなって良しとするか、浄正には分からなかった。
どのみち彼らを死なせたのは自分だ。
城の外れにある隠密衆の墓地に線香を手向け、風に揺れる卒塔婆を眺めた。
一万以上になるだろうか。
カナカナカナ…と蜩が鳴き始める。それがまるで墓の下から聞こえてくるようで、浄正はぎくりとして足早に墓地を離れた。
一度は城に戻りかけたものの、思い直して馬を駆り、相模まで走った。
「瀞舟、いるか」
日が落ちた頃に斗上の家へ着くと、稽古場は暗く主は不在。
門が開いていたのだから人はいるだろう。
勝手に上がって廊下を行くと、部屋から出てきた皓司が驚いて一歩下がった。
「浄正様、いらしていたのですか」
「勝手に悪いな。瀞舟はいないのか?」
「弟妹を連れて駿河の母の実家へ帰省しています。明々後日には戻ると思いますが」
何がなんでもというわけではないが、無性に瀞舟と話がしたかった。出足を挫かれたようで、浄正はあからさまに落胆する。
「急用でしたか?」
「いや、話したかっただけだ」
「……私では、話相手は務まりませんか?」
十二になった皓司は幾分大人びて背も伸びた。もう子供扱いする年頃ではないか。
帰ろうと思っていたが、皓司も一人でつまらないのだろう。少しだけ邪魔すると言うと、酒とつまみを用意してくると台所へ消えた。酒はともかくつまみなんて作れるのだろうか。
皓司の部屋に入り、勝手に座布団を失敬する。
壁の書棚には色々な分野の書物がきちんと整列していた。草花関連は瀞舟の書斎にあるのでここにはなく、代わりに歴史物や漢方医学、戦術書なんてものまである。好奇心旺盛な事だ。自分が皓司の年頃は本など嫌いで読んだ覚えがない。
しばらくして熱燗と焼き魚、豆腐、蕗の煮物を盆に載せた皓司が戻ってくる。
蕗の煮物は真夜の作り置きで、皓司は魚を焼いただけらしい。料理ができるとは思っていなかったので妙なものを食べさせられなくてよかった。
「江戸では評判がよろしいようですね」
隠密衆の評判が上がれば幕府の権威もより大きなものになるのでしょう、と分かった風な口を利く。実際その通りだが、ずいぶん口達者になったものだ。
「まだまだ見掛け倒しな面もあるがな。隊士の育成に時間を多く取れるようになったし、これからだ」
「今はひと月にどれくらいの入隊者がいるのですか?」
「先月は十九人。評判を聞いて勇んでくるだけの奴もいる。入隊前の試験をもっと綿密にして振り分けないとキリがないな」
すると皓司は、こんな試験はどうかと二、三提案を出してくれた。なかなかいい案だ。
魚をつつきながら他愛のない話を交わす。
やはり、会話が物足りなかった。
自分が無意識に皓司を子供扱いしているせいなのか、本当に話したい事を言えないもどかしさからなのか、何を話しても消化不良なのだ。
片付けて戻ってきた皓司にそろそろ江戸へ戻ると告げ、刀を手に立ち上がろうとした。
「ひとつだけ教えて頂けませんか」
皓司の手がさっと刀を掴んで押さえる。
なぜかそれがとてつもなく不愉快で、浄正は乱暴に刀を奪い返した。
「人の刀に安易に触れるな」
皓司は瞠目して手を引っ込め、「申し訳ございません」と呟いて視線を落とす。他人の刀においそれと触れるのは好ましくないが、皓司にそんな分別があるわけない。一方的に怒ってしまった事を後悔するも、このきまずい空気がさらに浄正の苛立ちを増幅させた。
「で、何だ?」
顔を上げ、ひたと見据えてくる皓司の揺るぎない目が一瞬野良犬に重なる。
一年前とは目つきが変わっていた。以前はもっと純真に物を映していたような澄んだ瞳だったのが、どこか冴え冴えとして白刃のような光を帯びている。瀞舟に似てきただけではない。何か皓司の中で物の見方が変わるような出来事があったのだろうか。
「浄正様は、野良犬を仕留められなかった事を今どうお考えなのですか」
燭台の炎がぬらりと揺らめいた。
「───なんだと?」
思いもよらない問いに、腹の底で燻っていた炎が沸き立つ。
「ご無礼は承知の上です。私は、浄正様ならいつか必ず野良犬を仕留めるだろうと思っていました。ですから心底がっかりしたのです。貴方の十三年間は一体何だったのですか」
「お前に何が分かる!」
衝動的に刀で殴り飛ばした。
何も知らないくせに、勝手に人を尊敬しておいて期待が外れたらがっかりした?
お前の為に戦ってきたわけでも期待に応える為に組織を率いてきたわけでもない。
この十三年が無意味に終わった事を誰よりも痛感し、辛酸を舐めてきたのは自分だ。戦場も知らない皓司に塩を塗りつけられる謂れはなかった。
半年押さえ込んできた憤懣が爆発する。
自分ではもはや止める事ができなかった。拳を振り上げ何度も殴り、その目が自分を見るたびに野良犬の影が重なる。
殺しても殺し足りない。
野良犬に一瞬で殺された隊士や神経症で幻覚を見ながら刀を振り回していた隊士の顔が走馬灯のように頭の中を廻る。町人の呆れた顔、罵る隊士の遺族、連なる卒塔婆、阿呆面をした城の天狗ども。
何もかも打ち壊してしまいたかった。
壊して、全てを白紙に戻して、最初から何もなかったのだと思いたかった。
叶わないなら最後にもう一度だけあの男と決着をつけさせてほしい。
何故、何も答えてくれなかったのか。
自分だけが戦場に取り残され、今も野良犬の亡霊を探して彷徨っている。
いっそ殺してくれた方がマシだった。
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