焔の塔
二十、
― 1689年 ―
夜霧の中にぬるりとした生ぬるい春風が吹く。
野良犬と初めて対峙した日も、こんな夜ではなかったか。
御頭の任務とは存外暇なもので、必要以外はぼけっと突っ立って報告を待つだけ。そんな立場が退屈で苛立っていた気がする。
山中に鳴り響いていた競り合いの音と声が途絶えた。
「報告でございます。綺堂が梶尾元成の首級を上げました」
「早かったな。残党は片付いたか」
「すべて排除、是にて終了でございます」
浄正は自分のこめかみがぴくりと引き攣るのを感じた。
遠征が終わるのに野良犬が現れない?
全てが片付いた後に出てきた事はない。遅くとも終盤までには現れ、戦闘で疲弊した隊士達にトドメを刺すかのように白刃を翻すのだ。
「引き続き野良犬を警戒しろ」
「御意」
春の夜の魔物の如く、霧の中からひたと姿を現した黒衣の男を思い出す。
───どこにいる?
奴は今自分を見ているはずだ。
浄正は周囲をゆっくりと見渡し、風に揺れる木の影を目で追った。
カサリ、と背後で枝擦れの音がする。
「そこか!」
「おわっ! …何ですか御頭、俺です」
交差した刃の間から安西が驚いた表情で見上げてきた。危うく隊士を斬るところだった浄正は、自分でも知らずと息が上がっているのに舌打ちして刀を収める。
「すまん。野良犬かと思った」
「奴、出てきとらんのですか? 討伐終わっちまいましたよ」
山中からぞろぞろと隊士が下りてきて二隊全員が揃い、野良犬が出ていないと聞くと皆一様に気味悪がって周囲を警戒した。
さては鬼の霍乱か。人間ならそれも不思議ではない。
どうにも腑に落ちないまま、その日は結局江戸まで野良犬の影も見ることはなかった。
そうして春が過ぎ、夏が終わり、秋になっても遠征にあの男が出てくる事はなく。
隊士の死者数はこの年、初めて激減した。
新入隊士六割に対して死者一割未満。隊士の数は順調に増え、部隊としてようやく形になってくる。野良犬に怯えながら戦う者がいなくなったおかげで個々の気力も上がり、新人育成や個人の鍛錬に力を入れる充実した日々が続いていた。
それに反して浄正の腸は日々煮えくり返り、表にこそ出さなかったものの遠征が終わるたびにその怒りは募っていった。
最後に野良犬と交戦したのは今年の初めだったか。長門の遠征だ。
別段いつもと変わった様子はなかった。
いや、あった。
あの男は初めて二刀を使ったのだ。
その戦闘力たるや凄まじく、死を覚悟した瞬間が何度もあった。しかし男は寸でで殺さず、途中で飽きたとでも言うかのように刀を収めてさっさと消えてしまった。
それが最後。
完膚なきまでに叩きのめされ、男に一太刀の傷も負わせる事はできなかった。
この十三年間、ずっとだ。
真意も分からぬまま逃げられては、どこに怒りの鉾先を向ければいいのか分からない。
「浄正殿。将軍より直々に、隠密衆の功績を称えて宴を催したいとお言葉を賜ったのだが如何かな? 野良犬も消えたようだし、貴殿らが堂々と遠征から帰還する様を見て江戸の評判は今やうなぎ登りだ。幕府の番犬として市井から認められれば、より徳川政権の力を知らしめる良い薬にもなる」
わざわざ衛明館へ出向いた穂積が、将軍からの文を差し出してくる。
浄正はそれに手をつけず、穂積の賞賛も聞き流して頭を振った。
「お断り申し上げます。我々は本来、これ以上の組織でなければならないのです。今ようやく土台を立て直し、新人も古参も減る事なく頭数だけは揃いました。今後は隊士個々の質を高め、着実に組織力を上げる必要がございます。栄誉など無用、若い隊士が自惚れる事なく職を全うできる組織を私は目指したいのです」
正直に言うと、穂積は最初から返事は分かっていた、と笑って将軍の文を下げる。
「将軍が宴を提言された時、浄正殿はおそらく断るであろうと申し上げておいた。それならそれで良いとの事だったのでな、相分かった」
宴の分を資金として頂戴できるよう頼んでみる、と穂積は悪戯めかして立ち上がった。将軍のご機嫌取りなどするよりはよっぽど有益な交渉だ。穂積に礼を言って外まで見送る。
そうは言ったものの、衛明館では今深刻な問題に直面していた。
古参の隊士に例の神経症を発する者が多くなったのだ。
野良犬は一応消えたが、夢に出てきたり遠征で幻覚を見たりと、その症状は伝染するように広がっている。恐怖の対象が目の前にいる時よりも、恐怖から解放されたあとの方が症状が重くなるものらしい。
すでに六人、精神を病んで手がつけられず除名した。
「御頭ー、饅頭買いに行ってきますけどなんかご所望あります?」
衛明館からぶらりと出てきた綺堂が呑気に手を振ってくる。安西も一緒だった。二人ともなぜか子猫を抱えている。
「特にない。その猫は何だ?」
「縁の下で鳴いてたんですよ。母猫がそばで死んでたから、世話してやらねえと」
「……お前たちが世話するのか?」
「買い出しのついでに町の女に頼んできます。何人か猫好きな奴知ってるんで」
慣れた手つきで三匹の子猫を抱える安西とは反対に、綺堂は二匹でも苦戦しているようで腕を右に上げたり左にあげたりとせわしなく動かした。
二人は特に神経症を患ってはいないようだが、今後も発症しないとは限らない。
野良犬が消えても尚こうして隊士を少しずつ失っていく。
奴はどこまで邪魔をすれば気が済むのか。
「二人とも、遣いくらい若い奴にやらせろ。新人育成で忙しいだろう」
「全然。今までろくに面倒見てやれなかったから、やっと先輩らしいことができて楽しいですよ。それに町へ出た方が気晴らしにもなるし、ね、安西ちゃ……って、なに頬ずりしてんの気持ち悪い」
「乳くせえ。子猫たまんねえな」
相変わらずのやり取りに、浄正は心配するのも杞憂かと溜息を吐いた。
『百戦錬磨』───いつかに二人が寄越した紙を思い出す。
あれは理想でも信条でもなく、彼らの礎だったのだ。
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