焔の塔
十九、
如月の中頃、江戸は大雪に見舞われた。
遠征は絶え間なく入ってくるが大掛かりなものは少なく、野良犬も最近は隊士を相手にせず浄正との交戦を狙ってくるようになった。とはいえ隊士が一人も殺されないわけではない。油断していると端からやられるのは相変わらずだった。
「よっ、大和。寒くないか?」
「綺堂さん」
衛明館の角部屋にひとり、大和は寝かされていた。
労咳はだいぶ進行しているようだが、病にも停滞期みたいなものがあるのかここ数週間はあまり咳き込まず、身を起こしていられる時間が多い。
「大雪ですね。どのぐらい積もってるんですか?」
「俺の膝下ぐらいかな。結構深いやね」
「子供なら腰まで埋まっちゃいますね」
身体の筋肉はすっかり削げ落ち、笑うとこけた頬が一層病的に見えた。
半纏を肩に掛けてやり、持ってきたお粥を盆ごと膝に乗せる。「今日は鮭が入ってる」と大和は喜び、ぱくぱくと匙を口に運んだ。よく食べてくれる。それだけでも嬉しいものだ。
当然、大和はもう遠征には参加していない。
実家へ帰りたいなら警護をつけて送り届けると浄正が気を利かせたが、大和は最期まで隊士でいさせて欲しいと懇願し、昨年の秋頃までは寝込むこともなく雑用をたくさんこなしてくれた。師走に入って一気に体調を崩し、それからは回復の兆しなく痩せていく一方。調子の悪い時期は二日も三日も食べられない時もある。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「おっ全部食べたな、偉い偉い」
盆を下げて湯呑みを手に持たせると、ひやりと冷たい指先が触れた。しばらく両手で包んで温めてやる。大和は気恥ずかしそうに笑って「綺堂さんの手はあったかいなぁ」と呟いた。
「怪我、もういいんですか?」
「んー? 大丈夫、結構塞がったよ。御典医が薬を変えたみたいでね、みんな前より傷の治りが良くなった気がするってすこぶる評判」
「へえ、それはすごいですね。怪我しないに越したことはないですけど」
火鉢をつついて消えかかっていた火を起こし、炭を入れ直す。
大和はちびりと湯呑みに口をつけ、閉じた障子に目を向けた。
「……安西班長は、お元気ですか?」
ずっとそれを言いたかったのだろう。
綺堂は火掻き棒を揃えて盆に置き、あぐらを組み替えた。
「元気だよ。たまには顔出してやれって言ってるんだけどね」
「……まだ怒ってるんですね。俺、班長に嘘ついたから」
大和が遠征先で血を吐いて倒れた時、帰還した安西の怒りは最高潮に達していた。傷の手当も受けず一日部屋に引き篭もってフテ寝。三日経って体調を取り戻した大和が謝るも、一言も口を利こうとしなかった。
その頃から安西は朝食を終えると衛明館を抜け出し、夕食まで帰って来ない日が続く。
大和は自分を避けているのだと落ち込み消沈した。
「言っていいのかなぁ……大和、内緒にしといてくれる?」
いつまでも大和が気を病んでいては身体にも障るに違いない。
頑なに会おうとしない安西が今なにをしているのか、綺堂は知っていた。
黙っていられるうちは教えないつもりだったが、大和の視線がいつも障子の向こうに安西の影を求めているのを見てしまうと可哀想でならないのだ。尊敬している班長に嫌われたと思い込んだままでは不憫すぎる。
「内緒って、何ですか……?」
「安西ちゃん、医者に通ってるんだよ」
「医者!? どこか具合が悪いんですか?」
御典医に診てもらえない病気なんですか、と慌てふためく大和を落ち着かせ、綺堂は苦笑して
首を振った。
「労咳のね、特効薬を探してまわってんの。外で何してるんだろうと思って一度こっそり後つけてったら、やくざ顔負けの剣幕で片っ端から町医者を脅して、労咳に効く薬はねえのかって無茶ぶりしてた」
大和が口を開け広げたままぽかんと綺堂の顔を見る。
「……そんな、なんで…怒ってるんじゃ……」
「怒ってなんかないよ。何が何でも大和を治してやりたい一心で、薬探しに躍起になってるだけ。無駄だと分かってても諦めないのは安西ちゃんの長所であり短所だぁね」
大和の目から零れた涙が湯呑みの中へ落ちた。
細くなった肩を震わせ、声を殺して泣く大和はもう長くないだろう。
何もしてやれない歯痒さは綺堂も同じで、話し相手になってやることしかできない。
せめて大和が息を引き取るまでに安西が来てくれればいいのだが。
と、願ったらどうやら本人が来たらしい。
病人の部屋だというのにスパーンと障子を開け放ち、仏頂面で室内に入ってくる。
「はんちょ…班長!」
布団から這い出ようとした大和を制し、綺堂は内心安堵の溜息を吐いた。大和の頬が俄かに血色を帯びて死の影が遠のく。安西に会えれば大和の生きる活力になるだろうと思ったが、本当だった。
「あれー今日は出かけないの、安西ちゃん?」
「雪だからな」
どかりと腰を下ろした安西は、痩せ細った大和の姿に驚くでもなく布団の上に干菓子を投げた。梅と千鳥の形をした、ずいぶん可愛らしい干菓子だ。
「穂積さんからの差し入れだってよ。食え」
そういえば今朝、浄正に会いにわざわざ穂積が衛明館へ来ていた。珍しいこともあるものだと思ったが、こんな菓子を男所帯の隠密衆に差し入れるとは穂積も不思議な人だ。
大和はすぐそれを口に入れ、半分舐め溶かしたところで急にくすくすと笑う。
「甘いなぁ」
「甘党なんだから平気だろ」
「はい、甘党です。班長は甘いの嫌いですよね」
「嫌いだ」
「でも大福は好きなんですよね」
「知ってるなら聞くな」
嬉しそうに声を弾ませる大和の顔を見て、綺堂はそっと部屋を出た。
灰色の空に向かってふうと息を吐く。大粒のぼた雪がしんしんと降り注ぎ、縁側の淵を濡らして溶けた。
───綺麗ですね。こんなに大きな桜の木は初めて見ました
三度目の春を待たず、大和は如月の終わりに十八歳の生涯を閉じた。
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