の塔


十八、


 ― 1688年 ―


 年の瀬に斗上の家に双子が生まれたと文が届いた。昨年は遠征続きで顔を出したのも数回程度だった気がする。年が明け、ほんのひと時の休息に相模へ出向いた。

「浄正か。旧年はご多忙のようであまり会わなかったな」

 相も変わらず稽古場の庭から闖入した浄正を、瀞舟は正月らしい一張羅で出迎える。新年の挨拶に訪れる人々が後を立たないのだろう。
 浄正はといえば変わりばえのしない着流しに厚手の羽織を引っかけているだけ。
 ここへ寄る前に一応は実家に帰った。が、葛西家を訪れる客などほとんどは父の知人ばかりで、自分に用のある人間は誰もいない。

「双子は元気か? 皓司も兄貴になって喜んでるだろう」
「どうかな。近頃反抗期でな」
「皓司が反抗期……?」

 俄かには想像できない。兄弟に親を取られて嫉妬でもしているのかと聞くと、そうではなく花の稽古より剣術の稽古にばかり力を入れているのだという。
 跡取りなのだから花の稽古は大事だ。刀ばかり振っても将来には役立たない。

「なんで剣術にこだわるんだ? 喘息は治ったんだろう? お前が無謀な扱きをしなくてももう十分体力はついてるだろうに」
「さて、反抗期の考えている事はよう分からぬ」

 そうは言うものの、瀞舟はまんざらでもなさそうな口ぶりだった。

「お主はどうなのだ。死に戦の名将などと誉れ高い噂も耳にするが」
「……言いたい奴には言わせておけばいい」
「皮肉なものだな。例の野良犬とやらがいなければお主の戦は負け知らずのはず。今頃は先代浄忠公をも凌ぐ闘将としてさぞ持て囃された事だろう」

 結局はそうなのだ。
 謀反討伐そのものはほとんど失敗した事がない。野良犬が謀反勢を片付けなくても隠密衆だけで十分事足りているのだ。
 この十二年で死者は八千あまり。その九割近くが野良犬の手によって死んだ数。
 十六や十七で志願して散った若者が多い。
 今思えば、これだけ死に戦と謳われている隠密衆によく志願してくれる者が後を絶たなかったものだと感心した。志願者がいなければ隠密衆は人員不足で潰れていただろう。


「最初の頃は奴を仕留めるのに躍起になっていた。だが数年前から、奴と話をしたいと思うようになった」

 縁側に腰掛け、瀞舟が淹れてくれた茶をひと啜りする。

「老中の穂積様が、奴は俺に答えを求めているのではないかと推測されてな。無論、言葉による答えではないだろう。行動で示せるものだ。俺が何かを成し遂げるのを待っているのではないかと。それが知りたいんだ」

 瀞舟はふむ、と鼻返事をして湯呑みに立った茶柱を見つめた。

「お主は変わったな。ここへ来るたび鼻息荒くして愚痴を吐いていたのが嘘のようだ。感情を捨てたか」
「そういうわけじゃないが、落ち着いた自覚はある。年のせいかもしれんがな」
「年と言うにはまだ早かろう。齢三十、これからがお主の本領の見せ所だ」

 血気盛んな十代の頃は自分のことしか考えていなかった。
 二十代になって、野良犬を仕留めることだけに躍起になった。
 二十代の後半は野良犬に振り回され、組織を維持することに苦心した。
 これからは隠密衆の土台を建て直し、汚名返上しなければならない。

 なぜか分からないが、今ふと野良犬との対決はそう遠くない日に終わる気がした。
 結末は予想もつかない。奴が死ぬか自分が死ぬか、どちらでもないのか。
 すべてが終わる時、自分にもまた答えが欲しいと思った。



 瀞舟に来客が入り、暇を告げようとすると入れ替わりに皓司がやってくる。
 ひょこひょこと片足を引きずり、一礼して自分の横に正座した。隠密衆の仕事柄、新年の挨拶は不適切だと分かっている。

「お仕事はいかがですか。まだ野良犬は出てくるのですか?」

 皓司は昔から遠征の話を聞くのが好きで、格好つけた虚言も思い浮かばず野良犬にやられて帰って来たとしか話せないのだが、それでも謀反討伐のくだりは興味津々といった風だった。

「なかなかしつこい犬でな。そろそろ首輪のひとつもつけてやりたいくらいだ」
「もっと腕の立つ隊士はいないのですか?」
「そう簡単に言ってくれるなよ。剣術の腕が一両日で格段に上がるわけもなかろう? これでも随分、地方道場からの推薦や腕のいいやくざ者まで引き入れてきたんだ。今後育つ者を待つしかあるまい」

 隠密衆の現状を教えると、皓司は自分のことでもないのに悔しそうな顔をした。

「浄正様が悪いわけではないのに、何故世間は貴方を責めるのですか? どういう噂が立っているのか父に聞きました。討伐は失敗していないのでしょう? 野良犬のせいで隊士が死んでいるだけなのに、世間ではあたかも討伐が失敗しているかのように囁かれてます。どうして本当の事を伝えないのですか?」

 子供らしい目線で擁護してくれる皓司に、浄正はふっと笑ってその頭に手を乗せる。

「そこは大人の事情ってやつだ。討伐は成功しました、隊士が死んだのは素性の知れぬ野良犬のせいで隠密衆の落ち度じゃありません───言い訳にしか聞こえんだろう? 言い訳でしかないんだ。隊士の腕が良かろうが悪かろうが、一度預かったらその命の責任はすべて俺にある。責め苦を負うのは俺の義務でもあるわけだな」

 そんなのおかしいと呟いて、皓司は自分の右腕を抱き込むように強く袖を寄せた。
 理不尽な物事は大人になればなるほど増えるのだと諭し、浄正は皓司に向き直る。
 喘息が治ったおかげか急に成長したようだ。もともと同じ年頃の子より体格も背も小さかったのでやっと平均に近づいたところだが、浄正にはわずかな成長でも嬉しかった。
 自分と同じく、皓司もまたこの長い年月を病と闘ってきたのだ。


「お前が生まれた日、就任一年目の俺は大勢の隊士を死なせた」

 野良犬だけでなく、謀反勢にもやられっぱなしだった。ほとんど失敗した事がない討伐の中で三本指に入る失策のひとつ。
 白昼の血溜まりが頭から離れず、衛明館にいるのも苦しくて斗上の家に逃げた。
 それが運命だったのかは分からないが、奥方の出産に居合わせてしまった。せっかくだから命の誕生を見ていけと瀞舟に強制され、また血溜まりを見るはめになり、最悪の夜だったのを覚えている。

「死に行く者を見てばかりの俺に我が子の誕生を見せて、命とは斯くの如し、ってな。あの時は瀞舟を恨んだもんさ。でも今は、良かったと思ってる。お前の成長と共に俺の隠密衆もここまで歩んできた。お前が懸命に生きようとするたび、俺も勇気付けられたんだ」

 皓司が冷たい両手を重ねて身を乗り出してきた。

「私も同じです。貴方は、どんなに傷ついても逃げる事を許されない。ぼろぼろになっても国を背に守って戦ってこられたのでしょう。だからこそ私も諦めずにいられたのです。浄正様のように強い人間になりたいと」

 強い人間、か。
 浄正は内心自嘲した。真摯な眼差しで自分を尊敬してくれる皓司には悪いが、それは見当違いというやつだ。本当に強い人間なら最初から斗上の家になど逃げてこない。皓司の名づけ親になることもなく、ほとんど付き合いもなく、尊敬の対象にすらなっていなかっただろう。
 瀞舟の言う通り、まったく皮肉なものだ。



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