焔の塔
十六、
近所のりんが息子を連れて遊びに来たと聞き、真夜は無心に切っていた人参が料理に使えないほど細切れになっているのに気づいた。慌ててそれを鍋に放り込み、蓋をして前掛けを外す。
客間に出向くと、りんはぱっと屈託のない笑顔を浮かべた。
「真夜ちゃん、久しぶりね」
「りん様もお変わりないようで何よりですわ」
年は九つ離れているが、りんはそういうものを一切感じさせない。息子の浄次を膝に乗せ、「やっと二歳になったけどまだ猿みたいだわ」などと面白い事を言う。その彼女の前髪の下、隙間から擦り傷のような赤い痕が見えた。
「額、どうなされたのですか? お怪我を?」
「あーこれ、お昼に出かけた時石ぶつけられたのよ」
詳細を聞かされ、真夜はりんの今後の身を案じて不安になる。
自分の悩みなど彼女が背負っているものに比べたら何と小さなものか……。
「でも真夜ちゃんにあげようと思って買った物が壊れなくてよかったわ。はいこれ、蒔絵の簪。真夜ちゃん藤の花好きでしょ?」
自分の簪を買いに行ったついでに見つけたのだというそれは、漆に螺鈿の蒔絵が施された立派な品物だった。こんな高価な物を頂く義理はないと断ると、買ったんだから貰ってくれなきゃ困ると押し返されてしまう。
「ありがとうございます、りん様。大切にしますね」
「最近、真夜ちゃん疲れてるみたいじゃない? あんまお洒落もしてないし、綺麗なんだからもったいないわ。素敵な着物いっぱい持ってるでしょ、今度一緒にどこか出かけましょうよ」
「……お気持ちは嬉しいのですが、息子が」
りんも知らないわけではない。悩みを零せばきっと聞いてくれるだろう。
でも、と真夜は口を閉じて押し黙った。
話したところで何も変わらないのだ。
息子の病気を克服させる為に夫が毎夜幼い息子に刀を握らせ、気を失うまで斬りつけるあのおぞましい光景が頭から離れない。血だらけになり、苦しそうに地べたを這う息子に自分は何もしてやれない。
病気を克服する前に死んでしまうのではないか。
朝、息子が布団の中で冷たくなっているのではないかと恐れて眠る事もできない。
いつまでこんな生活をしていなければならないのだろう。
「真夜ちゃん? 皓司がどうかしたの?また具合ひどくなったの?」
「いいえ……最近は元気です」
「瀞舟のやってることが赦せないの?」
「っ……そんな事は」
「そうなのね。ふふ、旦那のやる事なんか赦さなくていいのよ。一生怒ってていいの」
りんの言葉に、我知らず俯けていた顔を上げた。りんの小柄な手が頬を包み込んでくる。指の腹でゴシゴシと顔を擦られ、泣いていたことに恥じた。
「でもね、鬼畜生みたいなコトしてても人に嫌われるコトしてても、疑ったらダメ。旦那のやってることは本当に正しいのかしらって思った時点で負けなのよ。あの人またバカやってるわ、ぐらいの気持ちで見ててあげなさい。それが妻の役目です」
九つも年下なのに、なんて強い人なのだろう。
世間では夫の金で遊び暮らしている武家の姫などと辛辣な噂話も絶えないが、りんがどうして葛西浄正の妻でいられるのか分かった気がした。
浄正の名の重みは、今やただの女には到底背負うことなどできない。どれだけ金に不自由がなかろうと地位があろうと、『死に戦』ばかり繰り返している浄正をそんな風に信じて待ち続けることができるのはりんしかいないだろう。
彼女は「べつに待ってるわけじゃないわ。私は妻だからここにいるだけ」と軽い調子で言うも、そう言えるのはやはり夫を信じているからこそで。
「りん様、心強いお言葉とても励みになりました。ありがとうございます」
「いいのよ。女の気持ちをまったく分かってないバカな旦那もってお互い苦労するわね」
「ええ、本当に。……あら、浄次様は?」
いつの間にかりんの膝から消えていた。室内にもいない。
縁に出てみると、なんと庭に転げ落ちたまますやすやと眠っていた。
「ぷっ。何この猿、落っこちて寝てるわ」
そう言ってりんは息子の帯を掴んでひょいと引っ張り上げる。なんというか、子供の扱いがぞんざいすぎて言葉も出ない。
浄次は特に病気もせず、すくすくと元気に育っていた。
目鼻立ちが浄正によく似ていると思う。大きくなったらもっと似るのだろう。
健康な子に産んでやれなかった事を後悔しても遅い。
今はせめて、皓司が少しでも安らげるよう母としてしっかりしなければ。
◆
― 1687年 ―
喘息の症状がなくなった、と医者は言った。皓司は目を瞬き、自分の胸に手を当てる。
「治ったのですか……?」
「うむ、大丈夫じゃろう。嫌光の気はまだ少しあるが、身体が丈夫になった証拠じゃな」
発作が出なくなったのは分かっていたが、本当に治ったとはまだ信じられない。皓司は襟元を直し、高揚する気持ちを抑えて質問してみる。
「走っても、良いのですか? 体術などの鍛錬は」
「焦るでない、少しずつじゃ。瀞舟の扱きで生傷も絶えん、破傷風に気をつけねばの」
元より十歳前後で病が治れば幸先良く、治らなければその後の見込みは薄いと言われていた。ちょうど十歳を迎えてひと月。ようやく自由に動けるのだと胸が高鳴る。
これで理想へ一歩近づけるようになったのだ。
「父上、お話がございます」
「何かな」
書斎で本を探している父の背を呼び止め、皓司はその場に土下座した。
「どうか、より一層の鍛錬指導をお願い申し上げます。お見苦しい所はまだございますが、いかなる試練も耐え乗り越えてみせます」
トン、と本の角を机に打ちつけた瀞舟は、息子の決意が揺るぎないものと知りながらやんわりと断り、皓司を唸らせる。
「どの段階で技術を上げるかは私が決める事だ。今まで通り筋力を培う事に集中しなさい」
「鍛錬の中で体力は身につきます。生来出遅れた分、一日でも早く刀の腕を磨きたいのです」
一日でも早く、あの背中に近づけるように。
「お前は人斬りになりたいのか?」
父の言葉にぞわりと背筋が粟立った。そんなつもりではない。
「私は……父上から教わった剣術を、病の克服だけの手段に終わらせたくありません。才能として完全なものを身につけたいのです。生涯これが私の誇りだと思えるような…」
「綺麗事を抜かすな」
なぜ否定されるのか。
なぜ見透かされるのか。
知らずと手のひらが汗ばむのを感じた。
「皓司、その口で正直に申せ。お前は何ゆえに剣術を極めたいと思うのだ」
「……わ、私は」
言えば父を裏切ることになる。母も。
しかしこの思いを一度秘めてしまったら打ち消すことなどできなかった。
今まで一度も父に反抗したことはない。ここで反抗したらどうなるだろう。殴られるか、勘当されるか。それでも本当の気持ちを言わなければ父は納得しない。
すでに、自分は反抗しているのだ。
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