焔の塔
八、
― 1685年 ―
野良犬の情報が入ったと聞いて京の都まで飛んできたものの、目撃したとされる現場周辺から京の外れまで虱潰しに調べたが尻尾どころか毛の一本すら出てこなかった。どうやらガセだったらしい。屯所の者もいい加減だが一番いい加減なのは自分達だろう。
御所に顔を出して京の近況を適当に仕入れ、諜報が使っている塒へと赴く。
「御頭、どうします。すぐ江戸へ戻りますか」
不満気な顔が揃うのも無理はない。自分とて似たような顔をしている。なんの成果もなく江戸に戻れば城の天狗が干渉してくるのは必然、かといって京の畳は全て引っくり返した。これ以上調べても出てくるのは溜息だけだ。
「明朝発つ。祇園へ行きたい奴は明け方までに戻れ、いいな」
「御頭は行かれないんですか?」
江戸では深川へ出入りすることが多い浄正だが、祇園嫌いというわけではない。京女が嫌いなのだ。酒を注ぎながら遠回しにものを言うあの気位の高さは、根が単純な浄正には扱いづらかった。床下手でも江戸女の方が芸達者で気風が良い。
しかし自分が行かなければ隊士も遠慮するのは確かで、気にするなと言ってもそうはいかず仕方なく重い腰を上げた。幾人かの平隊士が安堵の表情を浮かべて続く。
深川と違い絢爛豪華な祇園は客引き役も往来の人相を見定めているのだろう、隊服は脱いで来させたが明らかに真っ当ではない自分達を見ると蔑視を寄越して道を開けた。
「江戸女は歓迎してくれるのに京女には不評ですな」
班長の一人、綺堂が道の両脇を眺めて肩を竦める。江戸なら今頃は女に囲まれて歩けなくなるほどの綺堂だが、おかしなことに子猫一匹寄りついてこない。
「御頭が過去に無銭遊興したんじゃねえの? タマも財布も抜かれてよ」
同隊の相方である安西が真顔で茶化すと周囲から笑いが上がり、綺堂を筆頭に花町での失敗談が始まった。
ここひと月ほど遠征がないおかげで殺伐とした空気は薄れ、血も涙もない組織といえど人の血は通っているのだということを少しずつ実感し始めていた。
最初からこんな組織であればどんなに楽だっただろうか。
率いて九年、当初から生き残っている隊士は一人もいなかった。それだけではない。入隊から殉職まで、長くて皆一年足らずなのだ。早い者は入隊翌日の遠征で死んだ。
ずっと、ずっと、その繰り返し。
隊士と馴染むまでに至らず次々と死なれては何を背負っているのか分からなくなる。
時々立ち止まって自分の軌跡を振り返り、虚しくなった。
成すべき事を全うし、成さねばならない事の最善策を考え、成せない事に憤る。自分の中に何か見誤りがあるのではと不安になり、ひとたび疑心が湧くと様々な物事が間違っている気がしてならない。
朝も夜も、晴れの日も雨の日も、この九年絶え間なく頭の奥で赤い火が燻っている。
こんなものの為に自分は生きているわけじゃない。そう思いたかった。
では何の為に生きていると思いたいのか。どんな実感が欲しいのか。
昔の自分には明確な理想があったはずだ。
それさえも忘れ、ひとりの敵に苛まれ続け───
「んじゃ隊長、俺らは御頭と一杯引っかけて塒へ戻りますんで」
「本当に女買わなくていいのか、お前ら。これが最後かもしれないぞ?」
「なんの。未練があればこそです」
郭へ入っていく隊士達を見送り、綺堂と安西がふらりと浄正の元へ歩み寄ってきた。
「てわけで御頭、可愛い部下に奢って下さい」
班長二人に両腕をがっちりと掴まれた浄正はあれよあれよと飲み屋へ連れ込まれ、突き飛ばされるように座敷の奥へ押しやられる。
「……おい、何だ」
「おいでやす。なんにしはります?」
「燗。それと腹の足しになるもんを適当に三人分」
安西は浄正の好みも腹の空き具合も聞かずに注文すると、卓にドンと拳を乗せた。
もしかしなくても怒っている。
「さっきから何なんですか。隊士達の気も知らんで鬱陶しいツラしやがって」
「安西ちゃん、どうどう。まだ酒入ってないのに絡むの早すぎ」
綺堂の穏便な仲裁にも耳を貸さず、安西は真っ直ぐに見つめてきた。そんな場合ではないのに、若いながらいい目をしていると感心する。こんな隊士が今いたのか。
「野良犬とやり合えなくてつまらんのは分かりますよ。俺らだってそうです。でもあんたも俺らも、そいつの為に今日まで生きてるわけじゃないでしょう」
まるで自分の心を見透かされたような叱咤に、浄正は我知らず息を止めた。
そういえば二人は在籍して一年足らずを余裕で乗り越えている。
二年……否、もっと長い。
毎回新しく入ってくる隊士ひとりひとりを覚えるだけ馬鹿を見るようで、いつしか隊士の顔と名を覚えようとしなくなっていた自分に気づいた。
こいつらは何年ここにいて、何回野良犬と戦い、何回『死に損ねた』のか。
「お前ら、在籍何年になる?」
「は? 俺は三年、綺堂は四年ですが」
三年、四年。
その間に赴いた遠征の数を考えられるほど頭の中のそろばんは正確ではない。
ただ、これほど長く在籍した隊士は初めてだった。
同じ隊の、班長同士。
彼らの隊がたまたま幸運に恵まれたのかとも考えたが、隊長格である三人衆はこの四年間に少なくとも十人以上は代替わりしている。皆、野良犬に殺された。
なぜこいつらは生き残っている?───喜ぶべき事のはずなのに疑問が先立つ。
「よく生きてたな」
感動も感謝もない本心が口から出た。
運のいい奴らなんだろう、今日までは。
次に野良犬と鉢合わせればどちらか、あるいは二人ともきっといなくなる。
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