焔の塔
衛明館へ戻るか実家へ顔を出すか、迷う前に身体がその門をくぐっていた。 父も母もとっくに寝ている時刻、ぱちぱちと弾ける篝火の音が家の中でもよく聞こえる。土間で水を飲んでから妻の部屋へ足を運んだ。顔を見るのは久しぶりだ。 会津藩のさる武家と縁談の話が持ち上がったのは一年前。正直に言って野放しの人食い犬を仕留める事しか考えていない浄正はそれどころではなかった。適当に理由をつけて断ってくれと伝えたのだが、父は何を思ったか三日後にその娘と両親を連れて衛明館までのこのことやってきたのだ。 りん、と名乗った娘は童女と見紛うほど小柄で幼く、いくつなのだと聞けば十四だという。自分と十も離れているのは問題じゃないが、それ以前に妻と呼ぶには何もかもが幼すぎて話にならなかった。断ると再三告げて相手の両親を唸らせていると、父が唐突に隊士の一人から刀を借りてりんの前に放り投げ「浄正の首を刎ねていいぞ」と言った。 するとそれまで一言も口を開かなかった娘は、立ち上がるなり胡坐を組んでいた自分の股間目がけて刀を突き刺してきたのだ。間一髪で躱すも追撃まで計算していたらしく、十四の小娘とは思えないこなれた刀捌きで次々と襲い掛かってくる。大広間が一時戦場となったのは言うまでもない。 ただのおとなしい娘なら父もここまで縁談を薦めなかっただろう。 「首より股の竿を刎ねてみせますわ」と屈託のない笑顔を見せるような娘だから気に入ったのだろうことは、その一件でよく分かった。 妻の部屋へ入るとその姿はなく、布団も敷かれていなかった。 別の部屋で寝ているのだろうかと自室へ行ってみたが、室内は久しく主が不在だったことを物語るような饐えた臭いしかしない。 「内儀なら会津だ」 ふいに天井から声がし、刀の柄を掴みかけた。 「ふふ、臆病者め。それで隠密の頭とは笑わせる」 「知らん間柄でもあるまいに気配を隠すな。卑怯者め」 するりと音もなく着地した影は闇に慣れた目でも分からないほどそこに同化し、目の前にいながら息遣いすら聞こえなかった。 「滑稽な顔だ」 影の冷たい手に顎を掴まれ、その手首を掴み返す。 「俺の前に現れるとは珍しいな、莱」 「たまには我の美貌を見たかろう」 「なんだ、抱いて欲しいのか」 柔らかい腰を抱き寄せると莱は関節のない生き物のように体を反転させ、首に脚を絡めて絞めつけてきた。冗談だと手首を離し、降参する。 隠密衆の影としてのみ存在する飛車は戦闘時以外に姿を現すことは稀だ。 代々の隠密頭には一人ずつ専従が宛がわれ、それは生涯契約となっている。引退した後も好きに使っていいということだ。一族の詳細を明らかにしない代わりの忠義とでも言うべきか、生贄を差し出すから信用しろという粗末な事情で成り立っている。じつに曖昧な存在ではあるものの、隠密初代から現在まで飛車一族に裏切り者が出たことは一度もなかった。 「りんはどうした。勝手に離婚か?」 燭台に明かりを差し入れると、二つの濃い影が這うように揺れる。 「お主、鈍感だな。何も知らないのか」 先代御頭だった父・浄忠の専従である莱は呆れた表情で黒髪を掻きあげた。 「内儀の腹に命が宿ったのは半年も前の話だ」 「……聞いてないぞ」 「聞かされてなくとも身に覚えはあろうが」 突飛な話についていけず、浄正はその場に座って唸る。嬉しくないわけではないが父親になるという実感が露ほども沸いてこない。お産の為に実家へ帰っているのなら戻ってきた頃には赤ん坊もくっついてくるわけだ。突飛すぎる。 「俺の子か……どんなんだろうな」 「斗上の子よりは不細工だろうな」 「独り言に返事は無用だ」 そう言ってから先刻の出来事を思い出し、浄正は口を噤んだ。 病弱な身体に少しでも力を付けてやろうという瀞舟の親心は分かるが、嫌光のきらいがあるからといって夜中に五歳の子供に刃物を持たせるなどいくらなんでも荒療治すぎる。朝から夕方まで花稽古をし、夜は親父に叩かれ───皓司が何をしたというのだ。他にもやりようはあるだろう。 生まれてくる子供がそうなったとしたら自分はどうするだろうか。 想像できない。今夜はもう疲れた。 「浄忠様はこう言っておられた」 畳に寝転がって目を閉じると、莱の単調な声が室内に響く。 「真実が知りたければ真の心眼を持て、と」 「何のことかさっぱり分からん」 「血に飢えた野良犬は存外賢い。生きる為に何をすべきか心得ているからな」 野良犬の正体を知っているような口ぶりに思わず飛び起きると、莱はもう消えていた。 |
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