の塔


六、


 『冬の殺陣』と呼んで先代御頭が嫌っていた雪日の討伐も今年は例年にない大雪の日で、下野の国は師走に入って十日も数えず銀世界だった。

 この積雪では無相の男も出て来ないだろうかと思案した浄正は、しかし現れれば今日こそあの喋らぬ首を刎ね落としてやろうと血が騒ぐ。……が、また隊士の犠牲が出るのかと思うと胃が痛む。二度と現れるなと言い切るには、この六年間の恨みは多すぎた。
 秋の彼岸に隊士の卒塔婆を数えてみれば、それはゆうに千本を越えている。五百を数えて目が廻り、さらに道の先に立ち並ぶ塔婆は数えるまでもなくその倍。煮え繰り返る腑を鎮めて千本の線香に火をつけ、一本ずつ墓に添えているところで数人の隊士の遺族に見つかり、地面に両手をついて詫び続けた。

 ───次に墓地を訪れる日は、お前の墓を拝む時だ

 遺族から罵られたその言葉は、土下座の最中も脳裏に現れた黒衣の男に言ってやる。



「東照宮が苦戦しております。手隙の者に援護を、との要請がございますれば」

 氷柱になっている滝を眺めていた浄正は、飛車の報告を聞いて山の上を見上げた。
 雪に足を取られて思うように動けないのはこちらも敵勢も同様、斬り合いの最中に足を滑らせて谷底へ落下する者の姿もよく見える。雪日を嫌う理由には、そんなつまらぬ死に方をする仲間がいるせいもあった。

「全隊ヒマなしだ。俺が行く」

 滝沿いを大股に歩き出すと、その足跡に新たな雪が降り積もる。はらはらと散り落ちる粉雪に覆われた山の景色は、浮世のものとは思えないほど安穏としていた。
 昨年の今頃だったか、少し積もった江戸の雪で小さな達磨を作って皓司にやったら、あの子供はそれが溶けるまで皿に乗せて部屋に飾っていたらしい。今年の初めに会ったきり斗上の家へ行っていないと思い出し、この遠征が引けたら顔を見に行こうかと計画を立てる。

 三仏堂の裏手から上がると、背後に現れた自分に驚いた敵が足を滑らせた。その襟を掴んで首を掻っ切り、崖下へ転がす。

「御頭っ!?」

 そばで応戦していた隊士が気付いて叫び、伝染するようにあちこちから同じ歓喜の叫びが上がった。大将の登場と聞いて群がってきた敵を蹴散らし、本殿中央まで圧し進む。

「これしきの雑魚に何を苦戦している。雪もろとも斬り捨てろ!」

 頭上から飛び降りてきた敵の腹を貫き、刺した体を脇から斬り込んできた二人にぶつけて踏み越えた。将軍家所縁の東照宮を焼き払おうと企てた謀反勢だけあって、取るに足りない敵ではない。だが浄正には物の数でもなかった。
 真に恐れるべき敵は、いつも土壇場の後に現れる。
 今もどこかに潜んで機を窺っているのだろう。飛車にそれを探せと入念に指示しているが、一度としてその影も尻尾も見えた事はなかった。黒豹のような男だ。

 自分の出陣で俄かに士気を上げた精鋭たちの動きが、がらりと変わる。四苦八苦していた新人までが寒空の下で頬を紅潮させ、白い息を吐きながら周囲の敵を攻め落としていった。平素からこれなら文句はないと呆れるが、人間には計らずも必ず限界があり、そこに達すれば負ける。達する直前に隊士を奮い立たせる気付け薬が、自分なのだろう。


 五分五分と見えていた戦場の軍配がこちらに傾き、もう一押しだと読んだ時。
 浄正の目前にいた隊士達の間を、黒い影が走り去った。

「おか───」

 振り向いた隊士の首から、ぱっと飛沫が迸る。
 三人、四人、五人……十、二十、三十。
 周囲で攻防していた敵味方のほとんどが、首から血を噴いて雪の上に倒れた。
 それまで体内で沸騰していた血潮の熱が雪を溶かし、じわりと赤い水になっていく。
 天を向いて絶命した顔のどれもに浮かんでいるのは、呆然の二文字。
 何が起こったのかも分からないまま死んだ人間の表情だ。

「小賢しい野良犬めが」

 鳥居の下に姿を現した黒衣の男は、屍に囲まれた浄正を黙って見据える。陽明門から駆けつけてきた一隊の隊長が浄正の背後で一瞬息を呑み、殺気立てて前に進み出た。

「この浅田時長、筆頭に代わってお相手仕ろうぞ」
「よせ。あれは俺の獲物だ」
「獲物なぞとたわけた事を言っておられる場合ですかッ!」

 戯けた事なら、最初から何もかもが戯けている。幕府の忠犬が素性も知れぬ野良犬一匹を消せずに、昼夜虚しく遠吠えを繰り返しているのだ。
 黒衣の男は、隊士だけでなく謀反者まで容赦なく殺す。その境目が未だに不可解だった。
 謀反者の一味ではない、幕府の手の者でもない。どこかの腹黒い藩主が飼い慣らしている獣だと考えても、それで藩に何の得があるのかといえば何の得もないだろう。改革あるいは下克上を目論んでいたとして、時代は比類なき徳川代々の世。こんな姑息な手で脅かしたとあれば一藩の落城は決定的どころか、一国丸ごと野焼きに伏されて然りだ。

「豪雪の日にまで現れるとは、精の出る事だな」

 隠密衆の動向を正確に知って現れるあたり、隊士に内通者がいるか。
 もしくは、理由も検討つかないが飛車一族の誰かが寝返ったか。
 あるいは、内府にそれを操る裏切り者がいるか。

「今日こそは冥府の橋を渡らせてくれるぞ」

 覆面から覗く一対の眼が、ニタリと笑った気がした。






 夜半。
 江戸に着いた浄正は早々に登城を命ぜられ、着替えもしないまま老中達に囲まれた。

「此度の討伐を如何と言い訳なさるか、葛西殿!」
「この痴れ者め、東照宮を何と思うておる!」

 折り曲げた腹の痛みよりも痛烈な批判に歯を食い縛り、畳に額をつける。徳川の祖である家康を祀った東照宮で野良犬を仕留められなかった事が、それまで呑気に構えていた閣老たちを怒らせた。要するに野良犬が云々ではなく東照宮が問題なのだ。これが他所の地であったら「またか」の一言で済んでいる。不運と悟る他にない。

「家康公の御墓前は承知の上。何なりとお叱り頂戴致します」
「承知なれば何故このような……」
「まあまあ、落ち着かれてはいかがか」

 浄正の頭上を飛び交う罵声の中に、若い声がぽんと投げられた。

「討伐は討伐、宮は宮。舞台がどこであれ謀反勢は毎度彼ら隠密衆が見事に鎮め、我ら幕府の負け戦ではござらん。負けたのは浄正殿お一人。それで宜しかろう」

 何よりも重い一言を平然と放って、老中の穂積は場違いのように笑い出す。畳に付いた手の甲に血管が浮き出るほど、浄正は固く拳を握り締めて再び頭を垂れた。老中たちは不承不承に納得したのか、細々とした呟きが零れはしたものの罵倒の嵐はぴたりと止む。
 閣老の中で最年少の穂積は、半端に年老いた頭の硬い人間たちより柔軟性に富んだ考え方をするが、その見識も若さゆえなのか浄正の最も痛い部分をよく知り尽くしていた。

「浄正殿」

 穂積に呼ばれ、一寸ばかり額を浮かせる。

「貴殿は手負いの身と見える。この場は下城し、御身労わるが良い」

 小うるさい年寄り達は自分に任せろ、と小声で付け足した穂積は、渋り出した老中たちを適当に相手しながら浄正を退室させた。

 罰せられる事もなければ職を取り上げられる事もない。
 就任してからこの六年、常に宙吊りの状態を強いられていた。
 ろくに満足もできないのに功績は称えられる。
 仲間が死ねども死ねども誰も臆さず、代わりはいくらでもいる。
 無相の男はこの手に掛かる気配もない。
 腹底で燻り続ける煙は、再び赤よりも赤い焔の塔となって浄正を煽り立てた。



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