焔の塔
「羽を痛めた雀が猫に食われるのを助けようとして、庭へ出た?」 弟子の作品を眺めていた瀞舟は、花盆を回して再びその手を袖に入れた。 「危うきこと累卵の如し、か」 呟いて微笑を浮かべると、向かいで沈黙していた真夜の手が膝上で拳に変わる。活けられた花の隙間にそれを見て、瀞舟は妻の顔を見上げた。細面の表情は動かなかったが、見つめ返してくる目には何処となく嘆きの色が伺える。 「真夜。危うきこととは皓司の命ではない」 「……では何に喩えられたのですか?」 妻の胸中は察するに余りある。些細な苛立ちを言動に滲ませるようにはなったが、誰も責めてはいない事も、瀞舟にはよく分かっていた。無常を嘆いているだけだ。 「性根玉よ。あの無智蒙昧さが危うしと見える」 「五つの子供に世俗の何を悟れとおっしゃるのですか」 「世俗の如何は教えずとも自ずと悟れよう。そうではなく、己が身の程を知れとな」 花盆を藤紫の風呂敷で包み、他の作品と揃えて隅に置く。茶を啜りながら庭へ目を遣ると、斑模様の野良猫が池の縁に座って水面を覗いていた。錦鯉たちはその間、深くに潜って怪物が去るのを待ち続けるのだろう。庭の風景を眺めてしばらく、瀞舟は妻に向き直る。 「私の父を覚えておられるかな」 「存じております」 斗上の先代当主は、一口で言うなら禅僧のような人間だった。禅僧ほどに俗物の何たるかを悟ってはいなかったが、万物はいつの世であっても身分に関わらず平等であると心から信じて疑わない仏の化身のような父親で、驕る事もなければ媚び諂う事もしなかった。 生まれつき病知らずの健児でも有名で、ゆえに自分の息子がひとつ咳をすれば真夜中だろうと隣町まで名医を呼びに走り、鼻風邪を引いたとあれば京から最高級の紙を取り寄せたりと、自分が満足できるまで何一つ不自由ないように計らう。身内に対してだけでなく、近所から果ては道すがらの人や動物にまで、その自己奉仕的な精神は尽きなかった。 天神だの如来だのと拝まれるほどに純真で無智な人間を父に持った片親育ちの瀞舟は、皓司と同様に物心つかないうちから喘息を患った。父にはその病が結核に思えたのだろう、いずれ死ぬのなら今が大事だと言わんばかりに極限まで甘やかせて育てようとした。 「そんな父が嫌いではなかったが、自分とは少々器が違ったようでな」 このままではどうにもならないと感じた瀞舟は、親に似ずの無鉄砲な気質で父を困らせ、挙句に近所の柔道場へ駆け込んだ。無謀極まりなくとも現状よりはましになるだろうと単純に考えただけだったが、万事塞翁が馬、おかげで元服前には病も寄りつかなくなった。 「あなたと同じ事を、皓司になさろうと?」 賛否どちらとも言い難いような顔色で問う妻に、瀞舟はゆっくりと首を振る。 「否、それは二番煎じというものだ」 「では何を……」 己の腹を痛めて産んだ子の母にとっては煉獄のように思えるかもしれない。 「ぬるい根性ならばこの手で殺める───赦せ、真夜」 額から爪先まで斑に覆われた皓司は、ひゅうひゅうと掠れた音を鳴らして身を預けてくる。 汗に濡れた寝間着を取り替えて横たわらせると、上下する胸元まで布団を掛けてやった。 「雀を助ける事はできたのかな?」 布団の上から胸を擦り、荒い呼吸が収まるのを待って尋ねてみる。庭で意識を失った皓司の横に雀の羽が散っていたというのは、真夜から聞いていた。皓司はひたと見つめてきた目を瞬かせ、首を振る。 「できませんでした……」 「ほう。食われるところを見たか」 「……ちょっとだけ」 おぼろげに見たと言って口を閉ざし、潤んだ目を庭へ向けた。 桃の花が咲いている皓司の庭は、広くも表の稽古場の庭と違って何もない。何か庭に作ってやろうと聞いても要らないといったのは本人で、そこにあるのは桃が二本と桜が一本、あとは袂に四季折々の花が咲くだけだ。米を撒いては方々から飛来してくる数種類の鳥を見るのが好きらしい。 良くも悪くも体質は父譲りで、中身は隔世遺伝の祖父譲り。もっとも自分の父は孫の顔を見るまでも無く他界したので、皓司は祖父の存在も人柄も知らなかった。今生きていれば、半ばで反旗を翻した不良息子に代わって溶けるほど孫を可愛がっただろう。 「愚かな行為だったとは、思わぬかな」 途端に不貞腐れたような顔をするところは、早すぎた自分の反抗期にも似ていると見えて可笑しくなる。しかし愚かな事が何であるかは恐らく分かっていない。 「どうして助けようと思ったらいけないのですか?」 「助けようと思う心は良い。それはお前の優しさであり、無駄にはならぬ」 発疹の浮かんだ頬をひと撫でして、額の手拭いを取り替えた。 「よく考えてみよ。たとえ今日は助けられたとて、明日同じ事が起これば同じように助けられるとは限るまい。何故か? お前の身体が明日も満足とは限らぬからだ。分かるかな」 「……はい」 「となれば、皓司はどうする。日光に当たらず助けるにはと物を投げても、もしかすれば雀に当たる。猫に当たっても、この先ずっと雀の敵が大人しくしているわけもなかろう」 何を示唆されているかは分かってきたらしく、真剣な眼差しで見上げてくる。親ばかを言うわけではないが頭のいい子供だった。最初は分からずとも教えれば理解は早い。 「でも父上……いまの自分は花以外に何ができるのでしょうか?」 出来る事があるなら、否、出来なくてもやってみたいという意志は受け取れた。 やってみたいと思う根性がなければ雀の一匹や二匹も放っておいたに違いない。 「答えは簡単だ。助けたいものがあるならば、まずは己の身を現状から助けよ」 「走れもしないのに、簡単に出来るものですか……?」 「さてさて、皓司は父の話が遠回りでよう聞いておらぬと見えるな」 瀞舟は一頻り笑って息子の背を起こし、湯呑に注いだ白湯を手に握らせた。 「答えは簡単だと言ったが、手段は簡単ではない。むしろ地獄だ」 「…………」 「その身が果てるか勝るかはお前次第であり、天運次第とも言えよう」 白湯の中に映った皓司の目が微かに動揺する。 生きるか死ぬかも分からない道を歩いているのは、今とて同じ。しかし長く答えのない道を少しでも縮め、あるいは高く険しい断崖の上でも答えのある道を求めるのなら、死ぬ覚悟でそれを選べと願った。もしも選べないのであれば─── 「父上が手を貸して下さるのですか?」 助けてくれるのか、とは聞かれなかった。 「無論その心積もりではある。覚悟は良いかな」 「はい、父上」 決意と期待をない交ぜにして自分を見つめるその目が、やがてどう変わるのか。 楽しみでもあり、責任を果たさねばならない自分の重点でもあった。 |
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