焔の塔
四、
皓司が喘息を患ったと聞いたのは、それからふた月と経たない秋の中頃だった。
瀞舟とも旧知である水無瀬 樹の家に上がり込んで酒を飲み合っていた浄正は、その話を聞いて徳利を壁に叩きつけ、家主を呆れさせる。
「おい、単細胞浄正。うちを汚しに来たんなら帰れよ」
呪術師だか魔術師だか知らないが、樹の家は染みの一つもないような金閣寺ではない。
「お前の呪術で皓司の災厄を俺に回すとかできないのか、樹」
「はぁ?」
間抜け面で見返してきた樹を睨むと、庭に散っている紅葉の上を転がっていた大虎が寝転がったままきょろりと目を向けた。次いで鋭い牙を覗かせたその口から人語が出てくる。
「浄正は何でもかんでも背負うのが好きなのだな」
古風な喋り方をする若い女の声。虎は虎でも家主と同じく不死の肉体を持った妖虎・伽羅は、一転して立ち上がるとひょいと室内に飛び込んだ。その姿が若い女に変わる。
「そうゆうのを苦労症と言うのだ。知っておるか?」
「知らんわ」
伽羅は割れた徳利を拾い上げ、模様の入っている破片を樹に渡して装飾品を作ってくれと強請った。樹は面倒臭そうな顔でそばから削り出し、穴を開けて金具と紐を付けた首飾りを伽羅に放り投げる。一見とてつもなく不器用に見える男だが、だてに六百年以上も生きているわけではなさそうだった。
工具を床に転がして酒を一口呷った樹は、左右異なる色の目で半眼を向けてくる。
「ったく、お前もガキだな浄正」
平安時代に生まれた不老の男から見れば、たかだか二十年と少しを生きたばかりの自分など小僧もいいところ。だが年齢的な意味でないのは勿論分かっていた。
「本人にお前の迷信のせいだと言われたんならともかく、そうでなきゃ関係ねえ」
「お前には関係なかろうが、俺には関係……」
「ねえだろ。浄正は瀞舟の友人でその息子の名付け親。そんだけじゃねーか」
人の目に映らないものを職業にしているわりに現実的な結論を出して、樹は桶の中から冷えた徳利を取り出す。
丸められてみれば確かにそうだと思え、何を躍起になっているのか分からなくなってきた。
否、分かりすぎて嫌になっているだけだと、ここに来て悟る。
初陣から今日までの四年間、行く手を阻む脅威の男がどこの誰かも分からず、隠密衆もこの手で率いていかねばならず。裏返せばそれは退屈知らずの人生であり、自分が何より求めていた刺激だ。幕府などという曖昧なものの為でなく、自分の為の糧を見出せた。
必ずあの男を仕留めてやると思う傍ら、毎回仕留められないばかりに不満が募る。
その不満は、組織の中にいればいるだけ募っていくのだ。
当日まで知っていた隊士の誰かが必ず帰らぬ人になる。
たった一人の、無相の男の手によって。
新入隊士の顔や名前を覚えるまでもなく次々と入れ替わっていく衛明館の日常が、自分の至らなさでそうなっているのだと思い知る。
必然と束の間の逃げ場を求め、くだらない思考を払拭してくれる相手を求めた。
隊士でも城の上の天狗たちでもない、『外部』の者でなければ息が詰まる。
故に先代御頭のいる実家は極力避け、時間があれば斗上の家へ行き、なければ城の外れの辺境地に家を構えている樹のところへ迷惑甚だしくも転がり込んだ。樹に比べて瀞舟は年中多忙だが、当主がいなくても斗上の家へ行く目的は別にある。
皓司の成長を見るのが楽しみだった。
これほど素直に赦しを与えてくれる存在は他にないとすら思っていた。
その皓司がのっぴきならない身となった今、穢れを知らないあの顔を見るたびに白昼の屍が脳裏に甦っては呪いの言葉を吐き続ける。
のっぴきならなくなったのは、むしろ自分かもしれない。
「皓司の病を治してくれ。呪詛で俺に移せ」
「あのなぁ……世の中そうそう都合のいいようには運べねえんだよ」
俺の身にもなれと言い捨て、樹は倦怠に畳へ寝転がった。
「で、例の男はどうなってんだ。覆面くらい斬ってやれたのか?」
天敵の話題となると面白そうに尋ねるのは樹も瀞舟も似たり寄ったりで、他人事と思って好き放題言い始める。それが気紛れになる自分も相当なものだと苦笑が漏れた。
「覆面どころか未だに掠り傷ひとつ与えてない」
「与えてない、じゃねーだろ。与えられない、に訂正しろよ」
「いちいち揚げ足を取るな」
「取られる方がガキなんだよ」
寝酒をしながら笑う樹の顔を眺め、浄正は一瞬考えた事に自分でぞっとする。
「樹───お前のその、ずらーっと長い髪は自前なのか?」
「あ? 髪が何だ」
理由もなくずるずると伸ばしているらしい樹の髪は、黒。
天敵の髪も、黒。
六尺五寸の自分とさほども変わらない背丈の人間などそうそういない。
人相の悪い目許が似ていると思えば似ていない事もなく、金と赤である樹の目も何かのまじないで変えようと思えば容易いのではないかと考えて鳥肌が立った。極端に筋肉質でなく、といって痩せているのでもない着やせ型の樹は何となくあの男の背格好に符合する。
「まさかお前じゃなかろうな」
「何だよ、天敵の話か?」
「さっきからその話だ、阿呆」
すっ呆けるも年の功かと疑惑が増し、浄正は堪らずに樹の髪を握って引っ張った。
「つあッ! いてえんだよバカ浄正!」
「……地毛か」
蹴り飛ばされて自分も畳に転がり、天井に掌を翳す。樹の髪はたしかに地毛だ。
呪術というのがどこからどこまで可能かは知らないが、およそ人外魔境な手段を当たり前のように使うんだろう事は知っている。二本の蝋燭に火を点し、これは誰某の人魂で片方をもう片方の依頼で呪い殺すのだと普通に言う樹なら、何でも可能な気がしてきた。
「呪術で伸縮自在って事はないのか? 目の色もそれで」
「んな七面倒くせえことするか。くだらねえ」
「まあ、くだらん話ではあるな」
そもそも、異端児として一族に罵られた生来の金目と禁呪による赤目が呪術で変えられるのなら、樹もここまで捻くれた性格にはならなかっただろうと推測する。世の中を斜めに見るこの捻くれ者は、その双眸ゆえに数多の辛酸を舐めてきた。最初から隠せるものなら面倒でも隠してきただろう。
「言っとくが、俺はお前のケツ追っかけて刀振り回して遊ぶほど暇じゃねえ」
「誰も追いかけてくれとは頼んどらんし、お前に尻を狙われるほど落ちぶれてない」
「だから俺じゃねえっつの……薄気味悪いこと抜かすな」
薄気味悪いのはこっちだ。
徳利を冷やしてある桶に手を突っ込み、樹に水を引っかけた。やり返されると伽羅まで混ざり、終いには酒も水も畳にひっくり返って収集のつかない場になる。
荒らすだけ荒らして廃れた屋敷を後にし、衛明館に戻ったのは夕刻。
毎度そうやって己を騙しながらも、うんざりするような気分はその日もまた晴れた。
逃げている───自ずと口元に自虐的な笑みが浮かんだ。
|