の塔


三、


 ― 1680年 ―


 幾日も不快な暑さが続く。蒸し暑い気候に負けるほど柔な体ではないが、浄正は満足に寝付けない日々に苛立ちを感じていた。
 城の灌濠(かんごう)沿いを無心に往復していると、渡し橋を歩いてきた人物に呼び止められる。

「浄正殿」

 颯爽とした足取りで袴を裁きながらやってきた男は、精悍な面立ちの相好を崩して気さくに片手を挙げた。

「朝から気難しい顔をして、好い男が台無しだろう」
「穂積様。どうかなされましたか」
「何、散歩をしていたら貴殿の姿が見えたのでね」

 江戸老中の一人として将軍家に仕えている穂積 成将は、そう言って浄正が往復していた場所をなぞるように歩き出す。年は八つか九つ上だと記憶しているが、その沈着ぶりは少し年寄り臭くもあった。後ろ手を組んで歩調穏やかに歩く様など、二十二の浄正から見ればまるで老人の風体だ。三十路を越えるとこうなるのかと、自分の数年後を想像して止めた。
 穂積は内府の人間であり、同じ「争い事」に身を投じていても彼の武器は口と頭で、浄正の武器は刀と体。戦場の舞台がそもそも違うのだ。年寄り臭くなるのも道理かなと、浄正はその背を眺めて不躾な事を思った。

「件の曲者だが、こちらでも未だ足が掴めん」

 唐突に本題へ切り込まれ、浄正の心臓が軽く飛び上がる。振り返った穂積は、呆然とした浄正を見てあっけらかんと笑った。

「先程まで貴殿の頭を悩ませていたのは、其奴だろう」
「は……いや、その通りですが」

 心中察する、と頷いて再び歩き出した穂積の後に続き、浄正は濠を流れる水脈に目を向ける。鴨の子が三羽、親鴨の後を必死に泳いでいた。

「率直にお伺いして、内府ではどのようなご意見があるのでしょうか」

 隠密衆の活動報告として月一度は登城し、穂積を始め老中達と膝を突き合わせては討伐の成果を褒められる。しかし四年前から遠征のたびに戦場へ現れては脅威となっている無相の男については、今回も仕留められなかったのかと溜息を吐かれてばかりだった。
 浄正の腕が悪いとは誰も言わない。将軍ですら、その敵がたまたま一枚上手なだけであろうと諦めの境地に入っている。諦めれば済む問題ではないと拳を握っても、それを片付けなければならないのは他でもなく浄正自身。
 もはや捨て置けと老中達は口々に言うが、戦場を知らない彼らには分からない。
 この四年間にあの男に殺された隊士は早数百に上ると知っていても、彼らは所詮お上の膝元で文書を広げて薀蓄を宣う人間でしかないのだ。捨て置けと言われてそう出来る程度の野良犬なら、とっくに蹴り飛ばしている。

「脅かされているのはもはや我ら隠密だけではございません。いずれ幕府の一角……下手すれば中心に亀裂を入れられるのではないかと」
「初心に返れば、肝心な事が未だもって不明である」
「それは……重々承知してございます」

 木陰に差し掛かったところで穂積は足を止め、水面に映る雲を指差した。

「雲はなぜ空にあるのか。空にはなぜ雲があるのか。それが分からなければ、幕府が危機に陥ると言われても打つ手はござらん」

 要するに内府も本音を吐けば歯痒いらしい。
 謀反者がどこの誰であろうとどこの一派であろうと、無相の男は北から南まで至る所に現れては浄正の前に立ちはだかる。単純に考えれば反幕というよりも隠密衆の前線を目の敵にしたような、あるいは浄正だけを狙っているような気がしないでもない。現に各地で黒髪黒衣の男が悪行を犯したという話もなければ、それらしき男を見たという諜報の報告もなかった。
 四年間も執拗に付きまとっておきながら、常に布で覆われている口は一言も声らしきものを発せず、どれほど接近しても男の息遣いすら聞こえない。夜であれば亡霊か、白昼であれば妖しの類かと思うようなその存在は、回を追うごとに不気味な影を帯びていく。
 全貌の見えない男が何の為に刃を向けるのか、不可解この上なかった。

「どこの誰やも知れん野良犬一匹、貴殿には脅威であろうが我らには天井裏の鼠も同然。掃除は隠密衆に任せておこう───というのが、目下の意見でな」

 閣老の太平楽な考え方こそが浄正に重圧を掛けると知りながら、穂積は引き締まった頬を緩めて笑った。

「さりとて浄正殿のこと、遠からず仕留めて頂けよう」
「無論でございます」

 その日を楽しみにしていると言い残して去った穂積の背を見送りながら、浄正は腹の底から息を吐き出す。どこにいても、責任は己の肩に容赦なく圧し掛かっていた。




 昼前に城下町へ出ると、肥前名物の枇杷羊羹が売っていた。何とはなしに一棹買い、買ってから衛明館の大所帯では間に合わない量だと気付く。店はすぐ後ろにあるが買い足すのはやめて馬を駆り、相模へ足を伸ばした。
 実家を素通りして数軒先の屋敷前で降りる。昼飯も終わった頃だろうと思い、庭から稽古場の縁側へ向かってそこに腰を下ろした。

「浄正様?」

 続き部屋の縁側に出てきた女が、些か驚いたような顔で振り返る。手にした桶の水を庭に空けて障子の内側に置き、縁の上を楚々とした足取りで歩いてきた。

「久しぶりですな、真夜(まや)殿。勝手に失礼した」
「どうぞお寛ぎなさって下さいませ。主人を呼んで参りますので、今少々」
「来客中なら構わんが」

 何用かは知らないが様々な客が入り浸るこの屋敷、花を習いに来た弟子の稽古時間を除いても朝昼に暇を持て余している事の方が少ない。といって来客の為に何時間待たされようが、浄正は自分の時間が許す限りは勝手に寛いで待っていた。
 真夜は白魚のような手で後れ毛をついと髪に入れると、苦笑を浮かべて隣に座る。線の細い女だが芯は大木よりも太いと旦那からよく聞かされていた。

「息子が……病に罹りまして」
「皓司が?」

 今医者と話をしているのだと聞き、浄正は腰を上げた。真夜に案内されて子供の部屋へ行くと、布団に寝かされた皓司を挟んで当主と白髪の医者が話し込んでおり、浄正の闖入に気付いて首を巡らせる。薬の包みを受け取った瀞舟は門まで見送りに出て行き、戻ってくるなりいつもの態度で口元を緩めた。

「久しいな。お主を迎えると常にこの台詞で久しくも思わぬが、健勝で何より」

 息子の枕元に座って額の手拭いを取り、真夜が汲み替えてきた桶に浸す。その動作が一通り終わるのを待って、浄正は医者が座っていた場所に腰を下ろした。

「どうしたんだ、流行り病か」
「日輪の疫病神に名づけられたおかげでな、日の下で倒れた」

 我が子に名をつけろと言ったのは自分のくせに、素知らぬ顔で抜かしてくれる。
 病床を覗き込むと赤い発疹が首元を埋め尽くしていた。全身にも出ているらしく、発熱にうなされた小さな身体が布団の中で身じろぎする。幼少期に起こりやすい一時的な風疹かと問うと、瀞舟は至極平静な顔で説明した。

「嫌光のきらいがあるらしい。未熟ともなれば一時的では済まぬそうだ」

 半年ほど前から、日中に連れ出した後は具合を悪くして寝込むことが多かったという。免疫のないうちはよくある事だと風邪程度に思っていたらしいが、当主は「ついにこの暑さと陽射しに屈したようだ」と他人事のように笑った。
 布団の下から出てきた赤い手が父親の着物の端を掴む。その手を軽く撫でた瀞舟は、息子の顔に近づいて髪を梳いてやっていた。

「浄正が見舞いに来てくれたぞ、皓司」
「……ち、うえ」

 微かに開いた両目は充血して潤み、全身で息をしながら父を呼ぶ。
 そんな姿に我知らず後ろめたさを感じて、浄正は目を逸らした。迷信など端から信じていないが、戦で大量の血を流した日の夜にこの世へ生まれた皓司が、その場に居合わせた自分の罪業の何かを形として身に負ってしまったのではないか。
 馬鹿馬鹿しい疑いだとは思う。しかし、馬鹿馬鹿しいでは済まない三歳の子供の幸先に障害ができたのもまた、望まずして自分の前にある現実だった。
 日光に当たると発疹ができて貧血を起こし、熱が出る───たったそれだけの病にどれほどの生き辛さが待ち構えているのかと思うと、仕留められない野良犬一匹に齷齪しながらも五体満足な自分などまるで滑稽だ。

「瀞舟、もしこのままだったら……」

 日にも当たれず影の中で暮らせば、否でも人というのは衰弱の一路しかない。
 男は斯く在れ、女は斯く在れの時世、例外は多しと思えどその道はあまりにも侘しすぎる。

「浄正らしかぬ動揺だな。お主の身でもあるまい、案ずるには及ばぬ」
「皮肉を言ってる場合じゃないだろうが。どうするんだ、男がこのままで……」
「男も女もなかろう。死すればそれも定めだ」

 我が子の面前で事もなげに言い放った瀞舟は、そんな言葉には似つかわしくないほど愛しみを込めた手つきで息子の頭を撫でた。

「生きるも死ぬも本人次第。ものの分別がついた頃に一度問うてみようか」

 生きたいか、死にたいか───
 そんな訊き方は、この当主に限ってしないだろう。
 浄正は言葉もなく脇に座り続け、日が暮れても回復の兆しはないと知って枇杷羊羹を見舞い代わりに置いていき、暇乞いを告げた。



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