の塔


二、


 ― 1676年 ―


 春先だというのに、夜霧が出始めていた。
 道の先まで見通せるほど澄んでいた夜の闇に、ぬるりとした風が混じる。生暖かいような肌寒いような空気が、浄正の首筋を嫋女の手の如くに撫ぜて通り過ぎた。

 鳴り響く刀の競合いもそろそろ終息に近づいている。一つ、また一つと甲高い音を上げて鋼の音が途絶えていき、人の話し声が増えた。山道付近の気配を察するとさほど梃子摺りはしなかったらしい。

「御頭。あと半刻もすれば上方も終わるかと思われます」

 町外れで一人構えているところに、戦況を偵察して回る飛車が近づいてきた。
 敵数は大よそ諜報の報告通り。
 ここも至って静かなもので、浄正は正直なところ拍子抜けしていた。
 先代から引き継いで隠密筆頭を名乗り、それからひと月。今日が初めての遠征だった。浄正の経験上は初陣ではないが、隠密衆を率いての戦なら初の陣となる。最初こそ華々しく立ち振る舞いたい、とは思わないでもなかったが、こうも地味すぎると些か出足を挫かれた気分で煮え切らない。

「首謀者は今さっき江戸に送らせた。残党の始末がついたら撤収だと伝えろ」
「御意」

 実父でもある先代が断言した通り、御頭というのは孤独で暇な門番だ。戦場の動向を眺め、分析し、必要に応じて出るか出ないか。もっぱら出番のない事の方が多く、町の岡引のように「我は隠密筆頭である」と堂々名乗り出る機会は殆どない。
 徳川政権に影の如く連れ添ってきた隠密衆は、今や『隠密と見たら赤子でも殺せ』と言われるほどに諸藩大名から忌み嫌われており、各地の諜報員はそれこそ二重三重にも化けて屋根裏から井戸の中まで綿密に嗅ぎ回る。どちらかと言えば華々しい活躍をしているのは諜報で、前線部隊である御頭以下は、さながら時期を限られた打上げ花火のようなもの。
 限られた時のみであればこそ腕を揮いたいと思うのは、十八歳という血気盛んな歳を思えば必然の事だった。

(つまらん……)

 殺生の最中に不謹慎と言われようと、御頭という役目がここまでつまらないものだと知ったばかりではいちいち言葉を選ぶ心境にもなれなかった。
 幕府の安泰がどうのこうのといった綺麗事より、手応えのある人生が欲しい。
 ただそれだけとは言わないまでも、自分の望みに順位をつけるなら一にも二にも手応えだ。
 血が見たいわけではないが、求めている事は結果的にそういう意味にも取れるのだろう。平隊士の方がよほど自分の願望を満たすのに最適だなと自嘲すら浮かんだ。
 先代御頭の猛々しい振る舞いによって、幕府に楯突こうと考える者が激減したのが理由かもしれない。それも所詮は一時的な減少に過ぎず、手応えのある阿呆は必ず謀反を起こすと相場は決まっている。今は反幕計画を立てている時期と思えば、いくらかは辛抱できた。
 半年後にまだ自分が面白くないと感じていたら辞めてしまおう。


 朽ちた廃屋の戸板から背を離し、表通りに出る。
 人の影ひとつ見えない夜道は灯りもなく、月の光も霧に霞んで足元までは照らさない。

 ふと、前方の闇を見たまま足を止めた。
 ぬるりとした風。
 生暖かくも尋常でない寒気を感じて、肌がぞわりと粟立った。
 白い靄が、ゆるりゆるりと風に乗って流されていく。

 一瞬途切れた夜霧の中に、一筋の光が反射した。


「─── ッ!!」

 襟元の布を裂かれたと気付いたのは、咄嗟に身を躱して抜刀した後。あと僅かに回避が遅れていれば、布どころか首が切り落とされていただろう。
 黒い影が再び目の前を過ぎる。
 かまいたちのような攻撃に応戦するも、見えるのは白刃の残像のみ。
 それが見えたと思った時には何箇所も裂かれていた。
 白刃が見えるという事は獣ではない。紛れもなく人間だ。
 冷静に考えられたのはそれだけで、影が消えたと思った刹那、全身に強烈な一撃が襲いかかった。重心を取る下肢がびりびりと痺れ、踵が土にめり込む。
 眼前で交差した鋼の向こうに、すうっと細められた二つの球体があった。

「貴様……どこから沸いて出た?」

 黒布に覆われた口元は動かず、一対の眼だけが答えのように浄正を嗤う。
 飛車は町に二人と山中に三人が潜み、その動きは諜報など話にもならないほど洗練されたものだ。忍びの中の忍びと言ってもよく、代々に渡る限られた一族の者にしかこの役目は務まらない。並ならぬ戦力を持ちながらも戦には決して手を出さず、誰が危機に陥ろうと一切の助勢も行わない、生まれながらにして非情冷徹な一族。彼らは藪に紛れた体毛一本とて見落とさない『神の眼』を持つとまで言われている。
 その飛車が、突然自分の前に躍り出てきたこの敵一人を見落とした───
 空から降ってきたわけでもないだろうに、『神の眼』に映らなかった黒衣の男。

「俺を公儀(あずか)りの隠密筆頭、葛西浄正と知っての愚行か」

 馬鹿にしたような瞬きが、一つ。
 押し合う刃を力任せに弾き、即座に斬り込んだ。手応えもなく刀が空を切る。背後を取られたと気付いて回した腕がまた空を切り、頭上にひらりと舞い上がった影が浄正を飛び越えた。着地点へ凪いだ一撃も読まれ、簡単に躱される。それどころか、切っ先の上にトンと乗せられた足が強かに横っ面を蹴ってきた。無様に転がるほど鈍らな身体ではなかったが、瞼裏に火花を見たのは不覚だ。
 追撃は来ない。
 久々に鉄の味を覚えた口腔の唾液を吐き捨て、夜霧に立つ男を睨んだ。
 刀は脇に下ろされたまま。戦う気が失せたわけではなく、男は最初からこの姿勢だった。そして微塵も動く気配を見せずにいきなり攻撃を仕掛けてくる。腕力、脚力、瞬発力。どれを取ってもここまで身体能力の高い隊士はいないのがなぜか悔しい。

「名乗れ。滑稽な名だろうと笑わずに聞いてやる」

 いつ動くのかも判断し難い男の気配に集中しながら、三度問う。
 しかし答えは依然、沈黙の一辺倒。
 芸の無い男だと浄正は内心で毒吐いた。


 唐突に、男の脇でくるりと白刃が翻る。
 地を踏んで構えた浄正を嘲笑うかのように、男はわざとらしく鯉口を鳴らして刀を収め、霧の濃くなった周囲をちらりと眺めた。余裕を見せ付けるようなその態度が癪に障り、浄正は攻撃に踏み込む。一度は刃を向けてきた相手、抜刀していなかろうが戦意が失せたと言おうが、見逃すには口惜しい。仕留められたらさぞ爽快だろうと思うと血が逸った。
 男の目がこちらに向き直る。
 自分の刀がその目に映るのが、はっきりと見えた。
 抜刀する暇もない男の首を狙って一閃する。

 確実に捕らえたと感じたその首は、しかし僅かも切れずに終わった。
 男の指が、首元で浄正の刀を摘まんでいた。
 たったの三本で。
 押しても引いても動かず、完全に刀を封じられている。

「…………」

 俄かには信じられなかった。刀を封じられたのなら蹴りの一つでも見舞ってやろうとは思ったが、呆然となった思考では身体が付いてこない。隙だらけになった浄正へ反撃してこない男も、そうと知って余裕の体でいるらしい。
 赤子の手を捻りでもするかのように、容易く刀を押し退かされた。
 たったそれだけの事に肩で息をしている自分を知った浄正は、焦りと憤りが込み上げてくる腹に力を入れて唾を嚥下し、男と一歩の距離を空ける。

「面白い───貴様の首は俺が取るぞ」

 黒衣の男は頷きも笑いもせず、興味が失せたような目で浄正を一瞥すると、夜霧の中に音もなく消えた。




「御頭!」

 隊士に呼ばれて遠征の最中だった事を思い出す。
 上方は片付いたらしく、持ち場に当たっていた一隊が揃って降りてきた。

「残党は全て始末を付けましたが……どうなされたんですか、左の頬」
「野良犬に蹴られただけだ。大した事はない」

 熱を帯びてきた頬に手を当ててみると、ぷくりと腫れている。
 しかし腫れ上がったのはむしろ、先刻まで倦怠を感じていた浄正の腹の底だった。
 手応えのある野良犬がいる。
 今日仕留められなかったのならば、次こそはあの喋らぬ首を刎ねてやる。

 この時はまだ、その男が十三年も浄正を脅かす強敵になろうとは思いもしなかった。



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