の塔


一、


「何事かな。年寄りの悩み種は」

 往年の愚痴相手になっている斗上の当主・瀞舟は、久しぶりに相模を訪れた浄正の顔を見てそんな風に出迎えた。

「年寄りって言うな。お前の方が年食ってるくせに」
「成る程、己の老いが気掛かりと見える」
「…………」

 背伸びが必要な青臭い年頃でもないのに何を言っているのかと目で語られ、浄正は口をへの字に曲げて下駄を脱ぐ。
 年の差はほんの四つ。しかし人生の半分を荒事に費やした剣戟自慢の浄正と、人生のほとんどを華道に費やしている平穏自慢の瀞舟とでは、その差は瀞舟に有利な意味で七、八歳くらいは離れて見える。並ぶと浄正は餓鬼大将がそのまま成長したような風体だった。

「邪魔するぞ。弟子はもう帰ったんだろ」

 西日に染まった屋敷の門を潜り、玄関ではなく庭に面した稽古場の座敷へ直接赴いて縁側から上がる。この家を訪れる際はそれが当たり前のように習慣付いていた。
 いつからそうなったのかも覚えていない。
 瀞舟と付き合って何年になるのか、早々縁側に寝転がりながら指折り数えてみた。


 自分が十三の頃に、実家の数軒先に引っ越してきた斗上という名の華道一家。地方から出てきたわけではなく、相模の海沿いから内陸に拠点を移したのだ。
 当時十七だった瀞舟はそれから四年と経たずに実父を三十七歳で亡くし、齢二十で十一代目当主となった。先代当主は息子とは似ても似つかない珍奇な男で、その道にかけては天才だったが普段は頭が足りないのではないかと幼心に思ったものだ。
 その違いゆえに、穏和で広く好かれた先代当主と若くして鼻持ちならない威光を備えていた瀞舟には共通する弟子が半分もいない。ほとんどは先代当主の逝去と共に門を出て行き、またほとんどは若い当主の才知に惹かれて門を叩いてきた。
 今ではすっかり腰の据わった斗上家も、振り返ればなかなか波乱万丈と見える。


「瀞舟、お前との付き合いは三十五年になるんだな」
「その節目に何事を吐きに来たのか、さっさと言わぬと抹茶で持て成すぞ」

 浄正が茶道という堅苦しいものを嫌うと知りながら、瀞舟はこれ見よがしに茶道具を引っ張り出した。その掟も嫌いなら茶を立てる音すらも耳障りで、吐くからそれを仕舞えと折れる。
 起こした身を柱に凭せかけ、湯呑に出された緑茶を啜った。瀞舟の妻は浄正の来訪を知っても出てくる事はない。主人に言われたわけでもないだろうに、昔からよく出来た嫁だと感心すること頻りだ。

「皓司の手料理で舌が肥えちまってな、雇い女の作る飯がひたすらに不味い」

 そんな話をしに来たのではない事は百も千も承知とばかりに、瀞舟の手が再び茶道具に伸びる。浄正は慌ててそれを制した。黙っていれば本当に抹茶の刑だ。

「ま、何だ。ちょっとした昔話をしに」
「年寄りの話と言えばそれしか無かろう。好きなだけ過去の恥を晒すが良い」
「一言二言くらい慎んで我慢できんのか貴様は……」

 喋り出せば一言二言では済まない厭味と皮肉を流暢な口でぺらぺらと宣う瀞舟は、畳に落ちていた花屑を拾って縁側へやって来、庭へ捨てた。万物は土に還るものとして、当主は何でも庭に捨てる。それでもこの整頓された庭園に塵の山ができる事はないのだから、やはり万物は土に還っているのだろう。
 夏の軽装といえど隙なく着込んだ着流しの裾を捌いて隣に座ると、瀞舟は袖の裡から何故か駄菓子を出した。弟子への褒美の余り物、ではあるまい。

「こっそり駄菓子を食う男になったのか?」
「孝行息子が父にくれたものをお前にも分けてやろうと思うてな」

 次男の凌が京土産に腐るほど買ってきたのだと言う。跡継ぎが凌に決まってからというもの、双子の長女と共に世間を知れと諸国を旅させているらしい。世間知らずに育てた長男の扱いとは雲泥の差だ。

「さて、童心に返った浄正の昔話とやらは何かな」

 砂糖菓子を口に放り込んだ浄正の横で、瀞舟は庭に入ってきた野良猫を眺めながら同じように口へ入れた。野良猫はひょいひょいと石畳を伝って庭燈籠の上に飛び乗り、じっとこちらを見つめてくる。

「現役の頃、十年以上に渡る天敵がいたのを覚えてるか」
「かの御大が其奴の愚痴吐きに拙宅へ参られていたのは覚えている」

 かの大将である浄正は途端に渋面を作り、湯呑みを打ちつけるように縁側へ置いた。

 黄金期とも呼ばれた時代を築き上げた浄正だが、そこに至るまでは『天敵』無くして語れない。省みれば、その存在があったからこそ死に物狂いで隠密衆を引っ張ってこられた。
 だが感謝の念は露ほどもない。天敵ただ一人を仕留められなかったばかりに隊士の卒塔婆が何千何万と墓地に並んだのだ。
 夫を、息子を、父を、兄弟を殺された縁者の怨みは、むしろ浄正へ向けられた。
 かつては幕府の影で暗躍していた隠密衆の名を浄正の父が堂々たる戦果で世に轟かせ、その栄光が色褪せぬうちに組織を受け継いだ浄正には幕府と民からの期待が途轍もない重さで圧し掛かっていた。
 それから十三年、十八で筆頭となった浄正が三十を超えるまで、卒塔婆の数は冗談のように年々墓地を埋め尽くした。
 たった一人の、名も素性も知れぬ謀反人のせいで。

「俺が三十路を過ぎてから、そいつはぴたりと姿を現さなくなった」
「御大がその遣る瀬なき憤懣を皓司に擦り付けてくれたのも、よう覚えている」
「……言っちゃ何だが、結果を見れば大きな過ちでもあるまい」
「過ちゆえの結果に過ぎぬ」

 十三年も幕府を脅かして激怒させた無相の男が、何の触れもなく忽然と姿を消した。
 どこで遠征があろうと規模が大小であろうと、隠密衆が動けば動き、そして必ず浄正の前に立ちはだかった天敵が。
 何より怨んでも怨み足りないのは、奴には浄正の首を取る好機が幾度もあった事だ。
 武人としてこれほどの恥辱はない。慈悲で生かされたとは思い難く、では何ゆえなのだと問うても答えは一度も返って来ず。天敵は消えた。
 その憤懣と屈辱を、何の罪もない皓司にぶつけた事がある。何ゆえなのだと問う皓司に一言も答えなかったのは、確かに腹癒せ以外の何物でもない。この当主が怒る様を見せたのも、その時が最初で最後だった。


「今一度聞くが、奴が消えたのは何故だと思う、瀞舟?」

 茜色の空が紺碧に変わり始め、瀞舟は室内の燈台に火を点す。
 燈籠の上にいた野良猫はいなくなっていた。

「本懐を遂げたか浮世に飽いたのでは、と何度も推測してきたが」

 手燭を持って縁側を降り、庭に並ぶ燈籠にも火を点していく。
 赤く光った目が二つ、垣根の下からこちらを見ていた。

「その様子を見るに、悟ったか」
「ていうかな、その諸悪の根源に先日ばったりと出会った」
「ほう。珍しく面白い話を持って来たな」

 縁側に手燭を置いた瀞舟は「少し待て」と言って庭を回り、勝手口の方へ歩いていく。奥方に酒を用意させたらしく、戻ってきた手には銚子と肴が携えられていた。当主の手酌で一杯飲み干し、塩漬けの胡瓜を素手で失敬する。

「して、永年お前を悩ませた天敵とは何処の御仁であったか」

 愚痴に付き合わされてきた瀞舟も気になると見え、灯りに照らされたその顔には興味の色がはっきりと浮かんでいた。浄正は着流しの袷に手を突っ込んで懐刀を取り出し、鞘に彫り込まれている金色の紋を見せて口端を歪める。

「公儀だ」

 瀞舟が微かに瞠目するのが分かった。

「俺の懐にいたんだ。葵の御紋で着飾った鬼畜生がな」




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