春日の縁


四、

 保智とはほとんど会話を交わさなかったが、相方の圭祐が言うように口下手で人付き合いが苦手なだけで、これといって悪い印象はなかった。そんな彼とは対照的に圭祐は愛想もよく社交性に富み、かつて皓司と共に可愛がってやった隆と似た雰囲気がある。どちらかといえば隆には無意識的な腹黒さがあったが、それは腹黒さというより野心だ。圭祐にはそういうところが全く無く、かといって頼りなさそうに見えるわけでもない。芯の通ったしっかり者である事はちょっとした所作からすぐに分かった。これなら隆も安心だろう。
 今現在の隠密衆がどういう状況にあるのかは知らない。しかし浄正の引退に合わせて前線を退いた皓司が単身で復職したとなると、何がしかの危機に直面しているのではないか。安西が懸念したところでどうにかなるものでもないが、学習塾を開いてのんびりガキの相手をしている自分の立場を思うと気がかりではあった。
 隠密衆が心配なのではない。皓司が心配なのだ。
 そんな事を当人に言えば鼻で笑われるだろうが、これでも「育ての親」。というのは建前で、実際のところ安西には十年前の後ろめたさが大きな瘤となって心臓の中に残っていた。



 塾所に戻ると皓司が一花に地名を教えていた。分からないところがあったらしく、自分が戻らないので尋ねたのだろう。穏やかな表情でゆっくりと丁寧に説明する彼を、一花は頷きながら真剣な眼差しで見ている。
 昔の皓司はこんなに器用ではなかった。十九歳までしか知らないが、その頃でさえ大人になりはしたものの自分達から見ればまだガキだなと思う一面もあって、それは一言でいうなら「不器用」だったのだ。手先や行動の問題ではなく、性格不器用。筋金入りのツンデレぶりは一生直らないだろうと思っていたが、なんと驚け、だ。

「人間、成長するもんだな」

 台所で切ってきた羊羹を一花の机と自分達の机に置いて、安西は寝転がっている綺堂の腹を蹴る。唸って身を起こした綺堂が、途端に笑い出した。

「聞けよ相棒。花屋さんてばお前より教え方が上手なの」
「俺もついに廃業かね」

 自分の教え方が上手いか下手かは知らないが、初めて勉強しに来た子供でも教えづらいと思った事はない。ただし皓司のような丁寧さとは無縁だ。一人一人の性格に合わせて教え方を変えてはいるが、育ちのいい坊ちゃん嬢ちゃんならともかく相手は農民の子。気取ったところで何の意味もない。分相応とはこういう事だ。
 一花は皓司の物腰丁寧な態度に恐縮したのか、はたまた惚れたのか、いつもとは違って声も小さく俯き加減にお礼を言った。つるりとした頬がほんのり色づいている。

「いちか、とは可愛らしい御名前ですね。白梅の花に喩えられたのでしょう」
「はい……あの、亡き祖父が名づけてくれたんです。白梅が好きで……」

 一花という名だけで白梅が出てくるのはさすが家元の血筋か。もじもじと自分の指先を見つめながら答えた一花に、皓司は「私の名前も白に因んで名づけられたのですよ。お揃いですね」と微笑む。そんな会話でさえ昔の皓司からは考えられなかった。人間、やはり何歳になっても成長するものだ。

「さて、ぼちぼち種証しといきましょうや」

 綺堂が羊羹を頬張りながら手を叩くと、圭祐は待ってましたとばかりに膝を向けて聞き入る体勢を取った。皓司が一花の机から離れて元の場所へ戻る。

「一途で鈍感で報われない相棒に代わりまして、この綺堂一哲、一肌脱がせて頂きます」

 綺堂のノリに合わせて圭祐が拍手をした。この二人は案外いいコンビだ。

「まず簡潔に、手紙の主は安西先生の事が好きです。恋慕? いやいや、ちょっと違うんですな。いわゆる親愛ってやつです。『先生』の枠を超えた親愛」

 十歳前後のガキに恋されても困るが、親愛というのも微妙に意味が分からない。老若男女に好意を持たれるのは人徳、しかしこの件は皓司を巻き込んでいるところが謎だった。

「そんで話は飛びまして、安西先生は三ヶ月前に江戸へ戻ってきてここに無賃塾を開きました。俺は隠密を引退した後も江戸で家業を継ぎ家庭を作り、四十すぎても独身で女の影もない相棒の為に週何日かはせっせと弁当を運んでやって世間話をして帰るわけなんですが」

 その「世間話」に原因があったのだという。
 綺堂と日々何を話していたか……思い起こせばそのほとんどは昔話だ。

「この三ヶ月、安西先生の口から出るのはいつも決まって『斗上さん、元気かな』です。重〜い溜息を吐いて頬杖ついて、そんな姿はまるで恋煩い。こいつの手首の巻き紐、きったねー色ですが何だと思います? 紅蓮隊の鉢巻ですよ」

 左手首を掴まれ、ぐいと前に差し出される。未練たらしく思われようが肌身離さず手首に巻きつけている鉢巻は、かつては鮮やかな紅だった。今は色褪せた小豆色。改めて見ると寂しい色だなと思った。

「やはり私に恋焦がれていたのですね。お手紙でも下さればすぐお返事をしましたのに」
「こいつ何度か花屋さんに手紙を書いたんですよ。でも出さずに破ってポイ」
「それは勿体無い事を」

 うちの弟妹は毎週のように手紙を送ってくる、と皓司は言うが、物心ついた時から異常なまでのブラコン弟妹と一緒にしないでもらいたい。そういえばあの双子もいい年になったのだろう。現役の頃に一度皓司に内緒で彼の実家へ挨拶代わりに遊びに行った時、彼らはやんちゃな盛りだった。自分たちが兄の部下だと知るとやれ「下衆」だの「泥棒」だのと呼んで兄を返せと物を投げてきた。彼らの成長を知るのは些か恐ろしい気もする。

「確かに俺は毎日そんなことばっかり言ってたが、それとこれと何の関係がある?」
「あ、分かった!」

 唐突に圭祐が手を上げ、なるほど〜などと呟いた。こんなところも隆に似ている。

「……何が分かったんです?」
「綺堂さん、当ててもいいですか?」
「どうぞどうぞ、聞かせて下さいな」

 扇子の尻で首を掻きながら、綺堂は三個目の羊羹を頬張った。

「えーと、斗上さんの名を頻繁に口にしては恋煩いのように溜息をついていたことで、安西さんに親愛の情を抱いている生徒さんが『もしかしたら片思いの女性?』と勘違いしたんですね。お二人の会話で斗上さんという名の女性は隠密衆であるらしいと判断し、その子は衛明館に手紙を出した。たまたま斗上さんが復職されていたのが幸いしてご本人にすぐ届いたわけです。内容までは推測できませんが、嫉妬か恋の橋渡しか、どちらかでしょう」

 綺堂がぴしゃりと膝を叩いて扇子を広げる。そこには天晴れの文字があった。

「いやお見事! お嬢さんいい勘してますなぁ」
「彼は男性だ。俺も最初は勘違いしたが」
「ありゃ、どうも失礼なすって……てっきりお連れの男前の彼女かと」

 それを聞いた保智が憮然とした表情で茶を啜り、隣の圭祐に至っては他人事のように笑っている。班長というのは対照的な方がうまくいくが、この様子を見ると保智は苦労性なのだろう。それを機転の利く圭祐がカバーしているといった感じに見受けられた。
 昔の隆は自隊の班長がよく変わることで悩んでいたものだが、なかなかどうしていい人材に巡り合ったらしい。

「んで花屋さん、正解は?」
「圭祐の推理でほぼ当たりでしょうね。私は手紙の内容を知っていますが、差出人が何を思われて私に手紙を下さったのかは与り知らぬ話です」
「だから手紙の主は誰なんですか、斗上さん」

 それこそ一番知りたい、いや一番最初に知らなければ話が進まないのだ。
 皓司は羊羹を食べ終えてから懐に手を入れ、一通の紙を取り出す。便箋はえらく洒落ていてそこそこ高価なものに見えた。小遣いをきちんと貯めている子供なら手が出ないこともない程度の、銀箔入りの便箋。白い紙ならば塾にいくらでもあるのにあえて便箋を買い選んだのは、男ではなく女の仕業に違いない。

「然ればと言って御名前の記載がないものですから、お礼を伝える術もなく」
「……名前がない?」
「匿名で届きました。字体が子供のようでしたので読まずに破棄するのもどうかと思い、中身を検めましたらご丁寧な内容が書かれておりまして」

 失礼ながら、と前置きして皓司はその文面を読み上げる。

とがみ様

突然のお手紙、どうかお許しください。私は京橋にある学習塾の生徒です。
先生の名前は安西 悠先生といいます。ご存知でしょうか。
私が塾に通い始めたのは二ヶ月と半月前です。
その頃から先生はとがみ様にお会いしたそうにしています。
ご友人の綺堂様と、いつもとがみ様のことをお話ししています。
先生はいま四十一歳で独身です。付き合っている人もいないようです。
とがみ様にはだんな様や子供がいるのでしょうか。
もし嫌でなければ、学習塾へ来ていただけませんか?
塾は毎日朝から夜まで開いています。
えんじ色の暖簾に【安西】と書いてあるのですぐに分かると思います。
一目でいいのでどうか先生に会いに来てあげてください。
お願いします。

 何ともいじらしいその内容に、安西は目頭を押さえて俯いた。
 リキやツバメが自分の閉じこもりを心配してわざと外で悪戯を仕出かすことには目を瞑っていたが、肝心なものを見落としていた事に呆れて言葉もない。
 子供たちは自由奔放で突拍子もなく、かと思えば大人以上に人間を観察している。大人が思っているよりずっと、彼らは人の心というものに敏感だ。綺堂との世間話で自分がそれほど皓司を求めているように映っていたのかと思うと、恥ずかしいやら情けないやら。
 しかし、これで手紙の主が分かった。




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