春日の縁


三、

 塾らしい軒先を見つけた時、正面から見知った顔が歩いてきた。噂をすれば何とやらで、どこにいても周囲とは一線を画したその風貌と品格が人目を引く。
 聞けば自分たちと逆の道順で北町奉行所から日本橋を回ってここに来たのだという。奉行所へ用事があったらしく、ついでに呉服屋を営んでいる隆の実家『瑠璃屋』に顔を出したのだと皓司は言った。それでも来た道を戻った方が早いのに、なぜこんなところを通るのか。
 答えは、先日衛明館に届いた一通の手紙だった。
 そんな話をしている最中に二人の少年が竹筒に入った墨汁を振り回し、保智だけが被害を受けたのだ。


「いつか上野へ挨拶に上がろうとは思ってましたが、まさか斗上さんの方から出向いてくれるとは思いませんでしたよ」
「故あって今は私だけ衛明館に戻っております」
「そうなんですか。じゃ、また隊長役を?」
「ええ、愚にもつかぬ一団を率いる破目になりました。紅蓮隊の後継ですが」

 茶を淹れてきてくれた安西と生徒用の机を挟んで座った。その隣の机で、勉強しに来ただけにしては着物から簪からずいぶん可愛く着飾った女の子が、半紙に描かれた地図の上へ町の名前を書き込んでいる。母娘の二人暮らしで母親は朝から出稼ぎに行き、誰もいない家には危なくて帰せないんだと安西が説明してくれた。大切な客が来たから自習していてくれと言われると二つ返事の笑顔つきで、熱心そうな子だ。

「それで件の話ですが、うちの生徒に知り合いの子供でもいるんですか?」
「おりませんよ。手紙を下さった子も私の事は噂話でしかご存知ないようです」
「あなたを知るならそれで十分でしょうに」

 噂にほんの少しの事実を足し引きするだけで本人になるんですから、と悪びれない安西に、皓司は「日々偽りなく生きておりますので噂に違わぬのは本望です」と返す。
 古い付き合いでも皓司とこれだけ打ち解けて話せる人はそういないだろう。ましてや十年ぶりだというのに、どちらも空白を感じさせない親しみが会話の至る所に見受けられた。
 皓司の人付き合いが上手いせいもあるが、浄正にせよ隆にせよ、よほど胸襟を開いた間柄でなければどこか踏み込めない部分というのがある。今の隠密衆の中では付き合いの長い方だがそれを許されないのは自分であり保智であり、あるいは甲斐や上杉といったところだ。拒まれているわけではないが踏み込むには何かが足りない。そんな距離を感じる。だが、この距離感が保たれている故に畏敬の念が揺るがないとも言えた。

「で、手紙の主は何と? 俺が元隠密だってことはみんな知ってますが、斗上さんと関係あるなんて教えた覚えはないですよ」
「そうでしょうね。文面からは私を女性と勘違いなさっているご様子でした」

 湯呑みを手にした安西と湯呑みを置こうとしていた保智が揃って硬直し、想像力をフルに稼動させたらしい。数秒後の二人は示し合わせたわけでもないのに大仰な咳払いをした。

「……差出人の意図が全く分からんのですが、何か心当たりでも」
「安西さんにお心当たりがあるのではないですか?」

 皓司は他人事のようにそう言って優雅な所作で茶をひと啜りする。
 何とも間の悪そうな空気に、圭祐は助け舟を出した。

「さっきのツバメ君とリキ君、安西さんの事をよく見ていらっしゃるようでしたね」

 悪戯っ子ではあったが、子供ながらになかなかの観察眼を持っているんじゃないかと思ったのだ。安西に招かれて屋内へ入る前、リキが圭祐の袖を引っ張ってこんな内緒話をしてくれた。「ゆうは女にモテるんだよ。でも好きな人がいるみたいでさ、あっイッテツじゃないよ。だからすんげー硬派なの」という脈絡のない話は前置きで、次にこう言った。「おれとツバメ、わざと悪戯してるんだ。だってそうしないとゆうはずっと家の中にいるじゃん。そしたらモヤシみたいになっちゃうじゃん」と。
 安西の体つきや捲り上げた袖から覗く腕筋を見る限りモヤシになる事はないと思うが、保智のように筋肉隆々でもない。着痩せする人なのだろう。手を焼いている生徒が実はそんな心配をしてくれていると知ったら安西はどんな反応をするのか見たい気もした。

「あの子たちなら何か知ってそうじゃないですか?」

 安西は苦笑しながら、しかし確信を秘めた声でやんわりと否定する。

「いや、知らんでしょう。彼らはまだほとんど字を書けませんし、何よりあんな悪ガキですから手紙を出す前に直接行きますよ。行ったら行ったで悪戯して帰ってくるだけです」
「うーん、そうですか」
「あいつらの悪戯には必ず単純な意味があるんで、意図の分からない事はしません」

 圭祐はそこで、おや、と首を捻る。

「あの、安西さんは彼らがどうして悪戯するのか知ってるんですか?」
「ん? ああ知ってますよ。彼らに訊いたわけじゃないが、ガキなりに余計な心配をしてくれてるようなのでね。気づかないふりをしてやってるんです」

 つい笑い声を上げてしまいそうになった。皓司を「育てた」というだけあって、さすがに鋭い勘の持ち主だ。紅蓮隊にいた頃はどんな風に皓司と付き合っていたのだろう。知る事のできない彼らの時代を想像し、圭祐は頬を緩めた。

「差出人の名を教えてくれる気はないんですか、斗上さん」

 肝心の名前をいつまでも言わない皓司に、安西が痺れを切らして机を小突く。

「生徒をどうこうしようってんじゃありません。あなたに手紙を出した理由が知りたいだけです」
「ですから理由にお心当たりがあるのではと申し上げているのですが」
「謎かけしに来たんなら帰って下さいよ……」
「安西ちゃーん。頼まれてた硯と俺の愛がぎっしり詰まった弁当持ってきたべ」

 戸口の方から突然大きな声が割り込み、何事かと振り返れば焼けた肌と水色の着流しの対比が眩しい上背のある男が暖簾から顔を出していた。圭祐と保智が揃って首を伸ばすと、男と目が合う。

「おっ、初めて見るお客人ですな。ども、安西の腐れ縁の綺堂っつーもんです」

 人懐っこい笑顔を浮かべて挨拶され、圭祐も膝を回して挨拶した。ついでに保智のことも紹介しておく。相方はぺこりと頭を下げただけで、誰だろうと興味はなさそうだった。
 そうしてやおら皓司が立ち上がり、机の脇に膝を折って畳に三つ指をつく。

「御無沙汰しております、綺堂さん。斗上でございます」

 下駄を脱いで大股に部屋へ上がった綺堂はぴたりと足を止め、その笑顔を一瞬にして瞠目に変えた。両手に風呂敷を下げたまま場違いなところへ来てしまったかのように言葉を失くしている。
 安西と会った時もそうだったが、二人にとって皓司との再会は願ってもみない出来事なのだろう。しかし二人とも手放しには喜ばず、戸惑っている感じがする。その理由が圭祐にはよく分からなかった。

「花屋さん……や、十年ぶりですな。またどうしてこんな所に?」
「事情あって連絡なしにお邪魔させて頂きました」

 何だかよく分からないが邪魔になるなら出直すと言った綺堂に、安西はちょうどいいからお前も一緒に悩めと引きずり込んでその場に留めた。安西が自分と保智に「現役時の相棒です」と紹介してくれる。綺堂の実家は葬儀屋でその延長から石を扱い、硯も造っているらしい。風呂敷に包まれた生徒用の硯を受け取って隅に置いた安西は、もうひとつの弁当だという風呂敷も隅にやって皓司の訪問の理由を綺堂に話した。
 安西の手短な説明に綺堂は腕を組みながら鼻で相槌を打ち、聞き終えると茶をひと啜りして皓司の方を見る。

「なるほど。花屋さんも罪な人ですなぁ。いや安西ちゃんが罪なのか」

 可笑しそうに肩を揺らしている綺堂を、安西が不審な目で睨んだ。

「その口ぶりだと全貌が見えたようだな。俺にはさっぱり分からん、説明してくれ」
「えー、どうしましょうかね隊長?」

 彼らの間にはもう主従関係は成り立っていないはずだが、冗談めかして「隊長」と呼んだ綺堂の声には嫌味も当て付けもなく、その雰囲気がまた圭祐には羨ましく思えた。

「私からはどうご説明申し上げたものか判断し兼ねますので、綺堂さんにお任せします」
「然様で。それでは僭越ながらわたくし綺堂めがご説明して差し上げましょう」

 懐から取り出した扇子で膝を叩き、綺堂は安西に向かってにやにやと笑う。そういう笑い方をする時は決まってロクでもない話だとぼやいた安西が、一寸待てと腰を上げた。

「茶菓子でも買ってきます。近所に美味い羊羹があるんで」
「でしたら僕もご一緒させて下さい。保くんも一緒に行かない?」

 安西に続いて圭祐も立ち上がり、「衛明館でもよくお茶菓子が入用になるので、新しいお店を知りたいんです」と付け加える。所在なさげにしていた保智がのっそり立ち上がるのを待って、三人は屋外に出た。



「殿下はお達者ですか?」
「はい。今じゃすっかり隠密衆のお父さん的な存在です」
「お父さんねえ……。俺の知ってる殿下は女の子みたいで線も細かったんですが。そう、ちょうど貴女くらいの背格好でよく女に間違えられたもんですよ。ぽやーんとしていたから余計にね」
「あはは、僕もよく女性に間違われますよ」

 どうも安西は自分を女性だと思っているようなので、圭祐はそれとなく男であることを示してみる。すると彼は思った通り、ぎょっとしてこちらを向いた。

「失礼、てっきり女性だとばかり……」
「いえ、もう慣れっこですから」

 それに比べれば、皓司が手紙の主に女性だと勘違いされている事の方が謎だ。一体どんな噂を聞いてそう思ったのだろう。綺堂の種証しが楽しみになり、圭祐は意味もなく保智を見上げて微笑んだ。相方が変な顔をしたのも気にせず、安西に促されて和菓子屋の暖簾を潜る。

「あ、これ可愛い。見て見て保くん、羊羹に桜の花と金箔が入ってるよ」

 ふーん、と気のない返事をした保智の横で安西が「それ美味いですよ」と言い、店主の老人に二棹注文した。高級な和紙で包ませた方を圭祐に渡し、隆への土産にしてくれという。隊長の喜ぶ顔が目に浮かぶようだった。



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