春日の縁
二、
「せんせー、また明日ね」
「あいよ。戦国武将の名前覚えてくるんだぞ」
まだ昼前だというのに帰る生徒がいるのは、各家庭の都合に合わせているからだ。
というより一日中門を開けている。勉強したいと思ったら来ればいいし、したくなければ来ないでいい。ゆえに門下生の名簿なんていう大それたものはつけていなかった。
無賃で塾を開いたのは何も善行からではない。単に暇でやる事がなく、自分が持っているものと言ったらこの頭と刀しかなかった。刀の納め時を自覚して職を辞め、しばらく実家に帰っていたのだがどうにも暇、暇、暇……。何の変哲もない普通の家に生まれてこれほど退屈だと思ったのは、つまり前の職業が悪いのだろう。あれに慣れてしまうと普通の暮らしというのがひどく倦怠になる。だから辞めてもほとんどの者は刀を離さず、道場を開いたり用心棒や便利屋、中には暗殺業に手を染める者が多かった。
そこまで刀に執着する人生もどうかと思い、鍛錬は今でも続けているが振るう事はしないでおこうと決めた。余生は退屈しないで平穏な日々を送りたい。
たまたま実家の近所の子供に「江戸ってどこ?」と聞かれたのが始まりで、地図を書き地名を書き、読み方を教えたら後日その母親に感謝され、瞬く間に噂が広まってしまった。うちの子に勉強を教えてくれ、という親たちは決まって頭が悪い。頭が悪いから要領も悪いのであって、それさえ改善されれば貧困から脱出するのは容易いだろう。
村の子供たちに物書きや知恵を教えていくうち、いつの間にか彼らは大人になった。小さな集落だったので若者は出稼ぎのために故郷を離れ、自分のように何年も帰ってこなくなる。
やがて年寄りが増え、子供の姿もすっかり消えてしまい、退屈になったので江戸に出てきたというわけだ。正しくは“戻ってきた”のだが。
「ねえ、悠先生」
黒板を拭いていると、今やってきたばかりの一花が袖を引いて呼ぶ。母親の愛情か本人の女心か知らないが、それほど裕福でもあるまいにいつもめかし込んでくる子だった。
「おはよう一花。どうした?」
「おはようございます。あのね、ツバメとリキがまた墨汁で遊んでたよ」
墨汁と聞いて額の血管が浮き出たのが自分でも分かる。少し待っててくれと口早に告げると、一花は「城下町の名前を書いてるね」と可愛い返事をしてくれた。こんな出来た子もいれば墨汁を水鉄砲にして遊ぶ悪ガキもいて、ツバメとリキはその代表だ。
暖簾を跳ね上げて外に出ると、思った通り最高の手遅れ図が完成されていた。
「ツバメ、リキ! てめえら何やってんだ!」
「あっ、ゆうが来た! 逃げろ!」
墨汁の被害を受けた通行人の顔もろくに見ず、まず悪ガキを捕まえる。子供の逃げ足など大股三歩で余裕だ。襟首を掴んで通行人に差し出し、ガキと並んで自分も土下座した。
「つまらぬ子供の仕業ゆえ、何卒ご寛容下さい。御召し物は私が弁償致します」
奉行所が近いせいでこの辺りは役人や身分の高い者が往来する。こうして子供たちが悪戯をしたときに善悪を理解するいい経験になると見込んで、あえてこの場所を選んだのだ。その目論見は当たりも当たり、大当たりだった。
しかし一向に悪戯をやめないこの兄弟には毎度悩まされ、誰か一度でいいから許さんと怒ってくれれば願ったり叶ったりなのだが。
「構いませんよ。たかが墨汁ですから」
例外なく子供というのはお得な身分だ。
「有難うございます。なれど御召し物は必ずや……」
言いかけて、即座に我が耳を疑った。そして固まった。
この声───
「……斗上さん!?」
ガキの襟首を押さえつけるのも忘れ、土下座のまま顔を上げる。
何という奇縁か、嬉しいような憎らしいような複雑な感情が波のように押し寄せた。
「それに被害を被ったのは私ではありませんので」
涼しい顔でそう言った昔馴染みの隣で、呆然と立ち尽くしている男がこの世の終わりのような表情をしている。さらにその隣では可憐な少女がにこにこと子供たちに微笑んでいた。
「お久しぶりですね、安西さん。学習塾の先生をなさっているそうで」
「誰に聞いたんです?」
「こちらの生徒さんからお手紙を頂戴しました」
さっぱり話が分からない。
それよりも十年ぶりに再会したというのに、この男はつい昨日会ったばかりのような顔で感動のかの字もないらしく、言葉が出てこない自分とは逆に相変わらずだなとげんなりした。
今は虎卍隊という名に変わったそうだが、その前身である紅蓮隊を築き上げた鬼の男は数年前に御頭の屋敷へ隠居したのではなかったか。上野とて同じ江戸、偶然会うこともあるだろうとは思っていたが……ここで会ったが百年目ならぬ、十年目。積年の思いは一言では言い表せなかった。
「そんな顔をなさって、さては私に恋焦がれていたのでしょう」
などとたわけた事を言えるのも、ひとえに自分とかつての相棒が親鳥よろしくこの男を育ててやったおかげだ。
十五の彼は鼻持ちならない世間知らずの小僧だった。そこを何とかしてやろうと策略を重ねた結果、十六の彼は鼻持ちならない食わせ者になった。十七の彼は鼻持ちならない大人に化け、十八の彼は鼻持ちならない怪物になり、十九の彼はすでに魔王だった。その頃には自分も相棒も三十路を超え、そろそろ引き際だと感じて後釜を選び、刀を納めたのだ。
「綺堂さんは御達者ですか」
「元気ですよ。今じゃ四人兄弟の親父です」
土下座の格好で一体どういう会話だろう。
「それは何よりです。安西さんはご結婚なさっていないのですか」
「あなたに恋焦がれていたので嫁どころじゃありませんでしてね」
「ゆうはこの人に恋してんだー? へぇえー」
リキが面白そうに皓司の頭からつま先までを眺め、またへえ〜と感嘆する。
「ゆうにはさあ、イッテツの方が似合ってるよ。だってこの人さあ、絶対好きな人いるよ。おれ分かるもん。な、ツバメもそう思うだろ」
「ん。ゆうにはイッテツの方がいいよ。だって以心伝達じゃん」
「違うよ、以心伝心だよ」
かつての相棒、綺堂の名は一哲と書くがイッテツとは読まない。かずのり、だ。本人がここへ遊びに来た際、黒板に書いた名前を子供たちが「イッテツ、イッテツ」と呼び、そう読まれることに慣れていた綺堂は「テッちゃんでもいいぞ」とノリノリだった。
しかし、今はイッテツの話ではないのだ。
「それよりお連れさんの着物を汚してしまって、本当にすみません」
さっきから終焉の相を浮かべている男に言うと、彼より先に隣の少女が口を開く。
「紺色だからそれほど目立ちませんし、大丈夫ですよ。ね、保くん」
「……はぁ、まぁ別にどうってことは……」
かなり気にしているらしい。
「いや、でもお連れさんが納得いかんようですから」
「納得いかないのは己の不運さに、です。着物を汚された事そのものが問題なのではありませんよ。そうでしょう、保智」
「……はぁ、まぁそうですけど……」
こういう性格らしい。
「御紹介が遅れましたね。安西さん、こちらは殿下の班長で下谷と能醍と申します」
「ああ殿下の……またえらく懐かしい呼び名ですね」
てっきり皓司の友人かと思ったが、隆の部下だったのか。彼がなぜ隠密衆の班長を二人も従えているのかは不明だが、隆も相当でかくなったのだろうとつい年寄り染みた思いを馳せる。次いで皓司は二人に向かって自分を紹介してくれた。
「こちらは安西さんです。十年前まで私が率いていた紅蓮隊の班長を務めて下さった方で、私の性格をこのようにして下さった恩師でもあるんですよ」
「わあ、そうなんですか」
とか厭味を感心されても困る。さすが隆の部下だ。
女でしかもこの線の細さで班長というのは少々気がかりだが、隆が認めたのなら相当な腕前の持ち主なのだろう。入隊試験にやってきた当時の皓司とて、ひ弱そうなガキだと勘違いしたものだ。人の力量が見た目に比例するとは限らない。
立ち話も何だからと三人を屋内へ招き、安西はそこで一花が興味深そうにこちらを見ているのに気が付いた。
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