春日の縁


五、

「斗上さんに手紙を出したのはお前だな、一花」

 一花を見ると、彼女は俯いたまま消え入るような声でごめんなさいと謝った。まったく女というのは子供でも大人でも厄介な存在だ。男のように単純にはできていない。

「あのなあ一花。お前には感謝こそすれ、謝られる筋合いはないよ。こら、泣くな」

 ぽろぽろと涙を零しては袖で拭っている一花のそばに寄り、綺麗に結われた髪を撫でる。

「でも先生な、どうして名無しの手紙を出したのか知りたい。手紙を出す時、贈り物をする時、初めて人に会う時、自分の名前はきちんと名乗るものだって教えなかったか?」
「教わりました……。でも、どうしても書けなくて」

 自分の名前の書き方を知らないわけではない。現に毎日、勉強した紙には「沖波 一花」と書いている。書く気がしなかったという意味だろう。それも女心ゆえなのか。

「悠先生が今も忘れられずに想うほどの人なら、きっと素敵な女性なんだろうなって、いろいろ想像したの……そうしたら名前を書くのが恥ずかしくなって……。でもさっき先生が斗上様の名前を呼んだ時、私びっくりして……男の人だとは思わなかったから」

 それほどまでに皓司に対する自分の嘆きは恋煩いのように聞こえたのだろうか。むしろその方がびっくりで恥ずかしい話だ。一花の恥じらいなど自分の惚けっぷりには敵うまい。

「斗上様……手紙のこと、女性と間違えてしまったこと、本当にすみません」

 袖で顔を拭った一花は、皓司の方へ身を転じて腰を折った。畳につくほど下げた頭の頂上で桃色の花を飾った簪が揺れる。

「私がここへお邪魔した時、一花さんと目が合いましたね。その時に何となくですが手紙を下さったのは貴女ではないかと思ったのですよ。でも斗上という名を聞いて貴女は何もおっしゃらなかったので、私も尋ねませんでした」

 どうぞ顔を上げて下さい、と皓司に肩を叩かれ、一花はおそるおそるといった具合に身を起こした。その頬はまた色づいている。てっきり皓司に恋したのかと思えばその視線は今度は自分に注がれ、安西はますます女心というものが分からなくなった。綺堂の説によれば手紙の主、つまり一花は自分に恋しているのではなく親愛の情を抱いているわけで、それなら皓司に嫉妬するほどの理由はないだろうと思う。
 自分の混乱を読み取ったのか、綺堂がタイミングよく割り込んでくれた。

「一花ちゃんは先生の想い人がどんな女性か見たかったんだよな。先生も会いたがってることだし、それで招待してみたと」

 綺堂の問いに、一花は素直に頷く。

「んで、自分のお母さんとどっちが先生にお似合いか確かめたかったわけだ」
「綺堂様は何でもお見通しなのね」

 くすくすと笑う一花がそれも認める。自分はといえば、この仕掛けに戸惑った。

「……そういう意図だったのか?」
「悠ちゃんよう、俺今すげー悲しいわ。昔のお前は頭が良くて策略を練るのも上手で卑怯な手段もお手の物だったのに、今じゃすっかりボケ老人だよ」
「イッテツよりは若く見られてるぞ」
「見た目だけだろ。俺が言ってんのは中身の話」

 それを言うならこいつはガキ大将のままだ。こんな旦那を持って嫁もさぞ苦労しているに違いない。綺堂の嫁は旦那に負けず劣らず活発で小股の切れ上がった江戸女だが。

「子供を相手にしてるわりに子供心の読めねー奴だね」
「子供心は分かるが女心は分からねえよ。お前だって分からんだろう」
「あい。志麻がキレるタイミングは未だに分かりません」

 綺堂の嫁である志麻はたびたび旦那の尻を蹴り飛ばして家から追い出す。その度に相棒はここへ転がり込み、遊郭へ行こうと言ってはそのまま人の布団に寝転んで書物を読み漁るのだ。嫁も旦那の行き先は承知でわざわざ探しに来ない。

 客人をほったらかして相棒とつまらない会話をしていた事に気づき、安西は咳払いをした。

「まあそういう事で、斗上さんにはご迷惑をお掛けしました。申し訳ない」
「一花さんにお手紙を頂かなければ再会は当分先だったでしょうから、これもご縁という事で。こうしてお会いできて嬉しく思いますよ。お二人とも御息災で何よりです」

 皓司の言葉を聞いて、すぐには頭を上げられなかった。
 別の意味で申し訳ない気持ちが先立ち、また彼がそれについて一言も喋らず責めるでもない空気を醸し出してくれているのが憎らしい。この十年、ずっと後悔し続けていた。それでも今この時より強烈に後悔した瞬間はなかったはずだ。
 もう一度、申し訳ないと詫びる。
 皓司が立つ気配を感じて思わず顔を上げると、そこには鼻持ちならない小僧がいた。

「なぜ謝るのですか。そんな暇があるなら一分先の事をお考えなさい」

 十年前の日差しが窓格子から差し込み、あの日と同じように皓司は背を向ける。
 皓司の表情と畳の青さだけが瞼裏に焼きついていた。




 日本橋へ戻ることになるが一緒に桜を見に行かないかと皓司を誘い、京橋を後にする。
 圭祐は歩きながら伸びをし、ついでに欠伸をした。昼下がりで町は賑わい、店主は客を呼ぼうと声を張り上げている。江戸が江戸たる活気を放つのは何をおいても昼なのだ。

「安西さんて、斗上さんに少し遠慮している感じがしました」

 年はずっと上なのに、元隊長と元部下という主従関係が原因なのだろうかと気になって仕方なかった。綺堂も同じくらいの年齢らしいが、再会した瞬間こそ戸惑った様子でもすぐに切り替えて皓司との会話を楽しんでいたように思う。やはり気になるのは安西の方だった。
 皓司はゆったりとした足取りで両袖に腕を通し、しばらく返事をくれない。二十歩ほど歩いただろうか、ようやく口を開いたかと思えば最初にそこから出たのは軽い溜息だった。圭祐と保智は顔を見合わせて少し驚く。皓司があからさまに溜息をつくのは稀だ。

「遠慮されていたのは確かです。敬遠とも言いましょうか」

 敬遠とは何とも穏やかでない。皓司はまたひとつ溜息をついて、静かに微笑した。
 圭祐はどきりとして足を止めそうになる。
 その横顔がいつもと違うことに、保智は気づいただろうか。

「他愛の無い話ですが、何分私も若かったもので感情を隠すという器用な事ができませんでしてね。彼らとは気まずい別れ方をしたんです」

 安西と綺堂が年齢や体力的な理由で揃って引退を決意した日、皓司は岩に叩き付けられた気分だったと言った。まだ四年しか共にいないのに何故急いで引退するのか理解できなかったという。しかし十九歳の皓司にとって人生はこれからでも、三十一歳の彼らにとっては当時の前線はすでに限界であり、潮時だった。
 現在の弛んだ組織とは違い、当時の隠密衆といえば黄金期と謳われただけあって不眠不休の激務。五年在籍できれば天命を全うしたも同然の仕事だ。その中で皓司は四年過ごしたにもかかわらず信頼できる人間が少なく、正直に言えば御頭である浄正とひとつ年上の隆、そして班長の二人にしか心を許していなかった。十九歳になっても相変わらず了見が狭く、それ故に二人には悪い事をしたのだと言って、皓司はそっと目を伏せる。

「世間知らずで手に余る子供だった私を懇切丁寧に面倒見て下さり、あのお二人がいなければ今の私はないと断言できるほどに可愛がって頂いたのに、私は彼らに一言の御礼も言ってないのですよ。それどころか最後まで話を聞かずに部屋を出てしまいました」

 それなら負い目を感じているのは安西たちではなく皓司の方ではないのか。
 圭祐は相槌を打った後でそう尋ねてみた。皓司は頷いて笑う。

「そうですね、負い目を感じているのは私です。安西さん達は責任を感じているのでしょう」
「隠密衆を引退したことに、ですか?」
「いいえ。私が言うのも変ですが、私の元を離れた事に対する責任でしょうね」
「つまり育ての親として、途中で育児を放棄したという責任ですか?」
「そうだと思いますよ」

 あくまで推測の域を出ないらしい。皓司らしかぬ態度に少しばかり間の悪さを感じるが、安西や綺堂の皓司を見る目を思い出すとそれは九割がた的中かもしれない。
 彼らの別れ際は物寂しい情景だったのだろうと想像して、圭祐は何気なく空を仰いだ。綿のような雲が途切れ途切れに浮かんでいる。暖かな春の昼下がり、すべての音が消えたような気がした。意識して耳を傾ければ町の喧騒が絶え間なく聞こえてくる。
 圭祐は数歩ばかり道の先を行き、独り言のように呟いてみた。

「その日、親鳥を見失った雛は泣いたんでしょうか」

 返事はもちろん期待していない。不躾な質問をしたのだから。
 けれどもほんの一瞬、肯定と受け取れるような気配を皓司は確かに伝えてきた。
 それで十分だった。


 やがて日本橋が見えると、満開の桜は風に煽られて花吹雪を散らしていた。
 桜の花は春にしか咲かないが、樹はいつでもそこにある。世代交代に戸惑い涙を流したかつての少年は今、何百年も生きてきた桜の樹のように老巧で揺るがない。
 この人のような人間になりたいと思った。なろうとしてなるのではなく、自然にそうなればいいと願う。隆も皓司もそうして今の彼らになったように。
 自分が生きて引退できるなら、その時は必ず隆に会いに行こうと決めた。
 こんな穏やかな春の日に、今と変わらないであろう保智を連れて。







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