九.


 我躯斬龍の中央に立つ少女は、くるりと死体に背を向けると出口へ歩いた。
 金網に手をかけ、扉を開けようとした右手が突然ピクッと痙攣する。

「…………うっ、オエェェェ……」

 少女は腹を押さえたかと思うと、体を折って足元へ胃の中身をぶちまけた。

「げ!」

 出入り口の付近に立っていた宏幸が後ずさり、自分も口元を押さえて横を向いた。圭祐だけが帳簿を置いて竹筒を持ち、ぱたぱたと少女の元に駆け寄って懐から手拭を差し出す。

「大丈夫ですか? 血臭に当てられたんですね」

 少女は自分の撒き散らした汚物を飛び越えて我躯斬龍から出ると、圭祐から手拭を受け取って口を拭った。それから竹筒をひったくって栓を外し、一息に水を飲み干す。

「ぷはぁー。助かったで姉さん、おおきに」
「いえ、男ですが……」
「血に当たったんとちゃうで、ちょっと食いすぎたみたいや。握り飯ひとつ減らしたらよかった。勿体ないことしてもたわ」
「少し日陰にいるといいですよ」
「この手拭、洗って返すから借りとくな。あとで姉さんの部屋教えてな」

 圭祐の訂正などまったく聞いてない素振りで、少女はケロリとした顔に戻っていた。


 浄次は気難しい顔で少女の背中の刀に注視している。

「あの刀、どこかで……」
「あんなに大きな刀を女の子が操るなんてすごいですね! それも一撃で!」

 深慈郎は腰を浮かせて驚嘆する。それは誰もが思っていたことだった。
 隆は満足そうな顔で頷き、湯呑を一口啜ると深慈郎に向き直った。

「あの刀だから一撃なんだよ。普通の太刀みたいに何度も刃を合わせるほど容易な重さじゃない。それを支えるだけの腕力があれば、あとは遠心力が力押ししてくれるからね。もちろん素人じゃそれだけでは扱えないけど」

 初夏の風が吹き、隆は膝に置いた手で着物の裾を軽く押さえる。

「あの子は普通の太刀よりも大刀に素質があるんだろうなあ。刀の大きさを考えての間合いの取り方や、見切りもなかなか」

 深慈郎はそれを聞いて、自分の子供じみた驚嘆を恥じた。たとえ一瞬の闘いでも、それに関わるすべての状況を見抜くだけの感覚。それが今の自分にはまだ持ち得ないものなのだ。欠点といってもいい。

 そんなことを考えているうちに、ふと気づくと少女が自分達の前に立っていた。
 浄次は労いの言葉をかけるでもなく、座ったまま見上げる。少女はニッと無邪気に笑うと、まるで悪巧みを思いついたの子供のように声を弾ませた。

「ジョージ、第三試合の相手は現役隊士から選べるんやろ?」
「厳密には隊長三人とその下の班長五人からだ。班長の一人は殉死して欠番なのでな」
「ふんふん。誰が班長だか隊長だか分からへんけど、あそこの木に寄りかかっとる姉さんはその中に含まれとるん?」

 少女が指差した先には、木陰に寄りかかって試合を見ていた沙霧が立っていた。
 浄次は呆れて少女を見上げると、重い溜め息を吐いて首を振る。

「隊長の一人だが、お前とは天地の差がありすぎる。もう少し手本になるような奴を選べ」
「自由選択なんやろ? 手本なんぞハナから期待しとらへん。うち、あの姉さんとやる」

 頑として譲らない少女とこれ以上話しても無駄だと思ったのか、命知らずが、と吐き捨てて浄次は第二試合の続行を促した。




 残り七組の一騎打ちが終わった頃、日はすでに西へ傾きつつあった。
 第三試合を行う前に上位五人を選び、隊長および班長のいずれかを指名させて形ばかりの試合。毎年、この第三試合はものの数分で終わることが多かった。指名された隊士とて、隠密衆の実力を身を持って分からせる為の試合なのだから容赦はない。
 今、浄次を取り巻くすべての隊士も、かつては同じようにこの試合を経験した者達だ。

「麻績柴、普世はどうした」

 いてもいなくても構わないが、何かやっているんじゃないかと気になり、浄次は傍らで煙管をふかしている甲斐に尋ねた。

「弥勒? ああ、布団でも洗ってるんじゃナイですか」
「布団……?」

 予想外の返答に顔を歪め、衛明館の方を見やる。

「……まあいい。そういえばお前は今年、珍しく指名されなかったな」

 地面に引く長い影を見ながら、甲斐は可笑しそうに肩を揺らして煙管を木椅子の端に打ちつけた。燃え尽きた葉が黒い煤となって落ちる。

「昨年の今日の噂をネ。五人のうち、四人はどこからか聞いてきたらしいんデスヨ」
「ほう」
「なんて噂されてると思います? “卸し屋”ですヨ、卸し屋」
「偽りなく噂されているなら上等だ」
「おや、身もフタもない」

 指名された一人である宏幸は、厠で用を済ませると草履をつっかけて甲斐の隣に腰を下ろした。

「卸し屋の噂なら俺も聞いたことあるぜ」

 愛刀の各務を鞘ごと腰から外し、地面に突き立ててその柄に手を乗せる。

「『たかが農民上がりの剣士だった人間を、気に食わないという理由だけで臓物まで魚のように卸した鬼武者』ってな内容だったっけ」
「武者はいやだネェ。戦国の世でもあるまいし」
「大体よ、農民上がりってだけで世間から同情される男の方が情けねぇよな。そんなこと言ったらお前なんか舶来品の仲介屋上がりじゃねーか」
「貿易商人ダヨ」
「変わんねーだろ。よーするにだな、世間の命知らずな善良市民は、一息に殺さないのが悪いっつってんだろ? まったくおめでたい奴らだよな。ヘソが茶ァ沸かすぜ」
「珍しいネェ、ヒロユキがおれの肩持ってくれるなんて。さては今朝の博打で負けたカナ」
「……お前の援護すると必ず余計な一言か厄介なモン押し付けられるんだよな。前言撤回」

 浄次は横目で二人のやり取りを聞き流し、生暖かい風を受けながら静かに目を伏せた。

(腹が減ったな……)



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