三. 入隊試験の入り口は、我躯斬龍に一番近い裏門を使った。普段は勝手口のようなもので、隠密衆の面々は大抵そこから出入りしている。 沙霧は衛明館を出て、我躯斬龍へ向かった。 すれ違う隊士や綱吉の家臣たちは皆、沙霧に頭を下げて挨拶をしていく。隊士は当然としても、徳川家の家臣たちは曲がりなりにも沙霧より上の位である。しかし沙霧の外見や雰囲気がそうさせるのか、ご丁寧に皆ペコリと頭を下げるのだ。当の沙霧は礼を欠くことなくそれに答え、無表情で通り過ぎる。本人は何も考えてないだけだが、傍目には高慢と映っているかもしれない。 そんな沙霧の元へ、隊士の一人が声を弾ませて駆け寄ってきた。 「沙霧様、沙霧様ーっ!」 鮮やかな色のシャツを隊服の下に着込んだ男が、追いついて立ち止まった。沙霧が見下ろすと、彼の頭の旋毛までもがよく見える。 「お早うございますっ。受付へ行かれるんですか?」 「その前に我躯斬龍の床調べを言付かっているんだ」 沙霧が言うと、外山深慈郎は育ちのよさを表した童顔で頷く。一昨年に入隊して以来、隠密衆の仕事や上司に対して最も忠誠を誓っている少年は、バカ正直な純粋さが「使いやすい」という理由で皆に可愛がられていた。一度も人を斬ったことのなさそうな顔をしているが、土壇場での根性はなかなか見上げたものだと沙霧は思う。龍華隊の班長として、今一番の努力をしている男だった。 「重要なお役目を頂いているんですね! 僕、沙霧様の部下で本当に嬉しいです」 照りつける陽光を跳ね返すような笑みが深慈郎の顔に浮かんだ。 沙霧は彼の顔を真正面から眺め、小首を傾げる。 「深慈郎」 「はいっ」 「お前のその素直さが命取りにならなければいいが」 真面目な顔で言う沙霧に、深慈郎は一瞬きょとんとして相手を見返した。ややあって急に赤面し、両手をばたつかせて声を裏返す。 「そそそ、そこまで身を案じて頂けるほど僕は弱そうですかっ!?」 「誰も弱いとは言ってないだろう。内容を変えるな」 深慈郎は深呼吸して隊服の襟をひっぱると、姿勢を正して沙霧を見上げた。男の自分が女を見上げているという虚しい状況は自覚していない。 「僕は、隠密の仕事を誇りに思ってます。今は足手まといですけど、いざとなったら隠密衆の恥とならぬよう死ぬ覚悟はできているつもりです!」 その目には、一隊士としての光が確かにあった。 沙霧はふと口元を弛め、深慈郎の刀の柄に触れる。 「死ぬ覚悟など、お前にはまだ早かろうよ」 柄をぐい、と押して踵を返す。 「刀を佩く位置が高すぎだ。死ぬ時の事より基本を覚えろ」 深慈郎は感極まって目に涙を溜め、袖でごしごしと目を擦ると、沙霧の背に直角のお辞儀をして受付へ走っていった。 深慈郎が去ってから、沙霧は目の前に立ちはだかる建物を見上げる。 縦50メートル、横100メートル、高さ300メートル。外周と天井を塞ぐのは二重の太い鉄格子。 初めて見ても何度見ても、これは正方形の檻である。 手の付けられない獣を閉じ込めておくものではない。 手の付けられない獣たちが遊ぶ為の檻なのだ。 その名を『我躯斬龍』という。 物々しい名称を持つこの檻の実態は、隠密衆専用に綱吉が城庭に設けた闘技場だった。二重の鉄格子で囲まれているのは、飛び道具や弾かれた鋩などが外へ飛ばないようにした為である。隠密衆は様々な武器や技、時には口八丁をも駆使し、幕府に謀反を企てる者や盗賊などを始末する役目にある。 いわば徳川幕府の治安を裏で支えているといっても過言ではない───御頭曰く。 そんな彼らが常日ごろ、どこで鍛錬しているかといえば大抵はこの我躯斬龍だった。地面は時々壊れるが、何をしても二重の鉄格子だけはびくともしない。つまり隠密衆の連中にとっては暴れ放題の場所というわけだ。狭いだけに人数が限られ、日々争奪戦が繰り広げられている。 “我、躯を以て龍を斬る”という由来からは想像もつかない、人気スポットだった。 ふと、そのそばに黒い人影が二人立っているのに気がついた。 影の一つは地に片膝をつき、もう一つの影は立ってそれを見下ろしている。 (飛車か……) 沙霧はしばらく気配を消して立ち止まり、膝をついていた影がスッと消えると、音もなく歩み寄った。立っていた影がゆっくりと振り返る。 「吉川でちょっとした倒幕の話が持ち上がったらしい」 浄次は初めから沙霧に気づいていたのか、涼しい顔で手にした刀を持ち直した。 「江戸から発つまでもない、吉川に潜ませている隠密に任せる」 「左様ですか」 沙霧は浄次の目を見返した。 「吉川程度なら一両日内には片付くでしょうね」 「半日でカタをつけろと伝えた」 人を斬る時のような残忍な眼光を隠しもせず、浄次は沙霧の横を通り過ぎる。 「ときに、葛西殿」 「何だ」 「その先に我躯斬龍の鍵が落ちていましたが、どういう事でしょう」 「…………」 浄次の顔色が俄かに変色した。 ぎこちなく振り返り、平静を装った声で場を取り繕おうとする姿が何とも愚かしい。 「む、昔ここで鍵を落とした事があってな……その時のものだろう」 「そういう事にしておきましょうか」 鍵を手渡すと、沙霧は我躯斬龍の扉の前まで行って止まった。浄次は鍵を握りしめて安堵し、扉の錠に手をかける。我躯斬龍の鍵は原則として御頭が直接開閉しなければならないという決まりがあるのだ。建設当時から変わらない特殊な錠前は、壊そうとした痕跡が多々あるものの、いまだに一度も壊れたことのない鋼鉄の錠前だった。 「異常がなければ報告はいらん。麻績柴が来たら交代して受付に回ってくれ。頼んだぞ」 沙霧の短い返事を受け取ってから、浄次は城内へ引き返した。 |
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