二.


 一方、これもまた江戸城の敷地内に厚かましくも設けられている隠密衆専用の屋敷、衛明館。
 またの名を、『犬小屋』。
 由来には“徳川の犬”という侮蔑を込めてある。

 ここは隊士の中でも上位の者、つまり御頭、三人衆、その配下の班長、そして独身の隊士で寝床のない者だけが住みついている。平隊士でここに寝泊りしている者は少数だった。あとの隊士は皆、ほとんどが城下町や町外れに家庭や寝床を構えている。と言うと格好がつくが、単にすべての隊士を収容しきれないのが現状の貧乏衆である。
 この館が建ったのはだいぶ昔で、もとは江戸城に仕える下女や足軽などが使っていた場所だった。下女達には新しい館を建て、お下がり屋敷を隠密衆が頂いたというわけだ。当然不本意だが仕方がない。ただでさえ資金を使い過ぎると老中達からお咎めを食らっている日々、そんな事を言われても、というのが目下御頭の言い訳であることは「周知の秘密」である。


「誰じゃー! わいの布団にクソしよったんは!」

 オンボロの廊下を怒声が走った。布団に糞と聞いて、何人かが好奇心で覗きにくる。

「うわ。普世(ふぜ)さん、寝グソかましたんスか?」
「けったくそ悪いこと言うな、ドアホ! お前がクソさらしたんとちゃうんか?」
「なんで俺なんですか! だいたいこんな汚い部屋でクソも何もできたもんじゃないスよ」

 隊士の一人がそう言って後ずさると、案の定枕が顔面に飛んできた。

「朝っぱらから何事だ、やかましい」

 奥の廊下から声がした。たいして大きな声でもなかったが、誰もが気づいて振り返る。そこに居合わせた者達は一斉に廊下の端へ寄り、腰を折り曲げた。

「おはようございます、貴嶺様!」

 普段は何かと統一性のない隠密衆だったが、こういう時は見事に声が揃う。

「お早う」

 平然とその間を歩く貴嶺沙霧(たかみねさぎり)は、長い髪を背で揺らしながら問題の部屋まで来ると、眉をひそめて腕を組んだ。すらりとした長身に、バランスのいいしなやかな肢体。腕を胸元で組むその姿でさえ、まるで鎧を纏った西洋の騎士のような覇気を感じられる美貌だった。その胸は豊かに膨らみ、無駄なく引き締まった細腰との強弱が遠目からでもはっきりと分かる。
 頭を下げていた者達は揃って上目遣いに沙霧を盗み見、鼻の下を伸ばした。

「やかましいと思えば、貴様か」

 切れ長の目が侮蔑を隠しもせず、元凶を見下ろしている。普世弥勒(みろく)は寝癖で跳ね上がった赤毛も気にせず、パッと顔を輝かせた。誰が見ても下品な笑顔。

「沙霧〜、聞いてや。わいの布団に誰かがクソしよってん」
「お前のだろう。他人のせいにするな」
「なんでそう寄ってたかってわいのクソ言うねん。ムチムチバィーンなチチ触るで」

 弥勒がわきわきと手を動かした瞬間、威勢のいい音と共に身体が部屋の隅へ吹っ飛んだ。蹴り飛ばした本人は何事もなかったかのような表情で障子をぴしゃりと閉め、懐から出した赤い札を貼って歩き去る。

「……あの札、何だ?」

 沙霧が入り口に貼っていった赤い紙には、墨で漢字と記号のようなものが書かれていた。その字面からして何やらただならぬ事のように思い、誰も触れない。
 室内からは再びサルの怒声が飛ぶ。

「誰じゃー! 障子が開かへんわ! 叩いても蹴ってもびくともせぇへんがな!」

 廊下の一同はその札を剥がしていいものかどうか、しばらく迷っていた。そこへ、黒い着物の裾を引きずった胡散臭い男が通りがかる。その隣には、鬼も逃げ出すであろう巨大な虎。だがこの屋敷では、虎の方はよく見知った顔だった。
 男は部屋の横を通り過ぎ、先ほど沙霧が来た方向へとゆっくり歩いていく。

「隠密衆ってぇのは、揃いも揃って朝っぱらからヒマそうだな」

 馬鹿にしたように鼻で笑いながら通り過ぎたのだが、ぴたりと足を止めてぐるりと振り返った。長い漆黒の髪の間から、両目が見え隠れしている。野次の中の一人が、喉に物が詰まったような悲鳴を上げた。

「あんた……目が……」
「あぁ?」

 男が一睨みすると、悲鳴を上げた男は走って逃げ出した。隣で見ていた大虎が男を見上げて首を傾げる。

「あやつはおととい臨時入隊した男だのう。樹のことを知らないのだ」

 虎が喋った。まっとうな人語だ。
 喋り方は古風だが、声はその外見とは裏腹に、若い女の声だった。
 樹と呼ばれた男はさも当前のように、虎へ相槌を打つ。

「だろうな。それより」

 野次が一斉に身を引いたので、樹は札の前に立ってそれを指でなぞった。

「呪縛の札じゃねぇか。なんでこんなとこに貼ってある?」

 野次の一人に聞くと、強張った表情の隊士が緊張した声で返答する。

「貴嶺様が、普世さんを中に押し込んでから貼っていかれたんですが……」
「普世? ああ、あの阿呆猿か。ならこのまま貼っておけ。行くぞ、伽羅」

 樹は口端を持ち上げてにやりと笑い、定着をよくする為のように札を叩いてその場を去った。呼ばれた虎、伽羅は嬉しそうに足を弾ませてその後についていく。

「おんどれ、早う開けんかーっ!」



「のう、樹。あの呪符はどうして貼ったままにしておいたのだ?」

 のしのしと廊下を歩く伽羅は、隣を見上げて尋ねた。

「中の猿を檻から出さねぇ為に決まってるじゃねえか」

 樹は振り向きもせずに言う。興味の「き」の字もなさそうな返事だった。しかし、伽羅は気になって仕方ないという風に樹に問いかけるのをやめない。

「でも呪縛の札は、普通は人間や霊に使うものだろう? 障子に貼ったらどうなるのだ?」

 あれやこれやと質問をしたがことごとく無視され、ようやくこの質問で樹が立ち止まった。

「物にだって効果はあるんだよ。今頃は猿の部屋の扉という扉が開かなくなってる」

 いい気味だ、とでも言いたげにまた笑い、ずるずると歩き出した。
 伽羅は首輪についている鈴をチリンチリン鳴らしながら、樹のあとを追う。

「猿といえばのう、よく覚えてないのだが、なにか夢を見たのだ」

 樹の返答は当然返ってこないので、伽羅は一人で喋ることにした。

「今朝方の夢でな、伽羅はどうやら便を催して外の厠へ向かっていたのだ。でも途中で我慢できなくなって、すると目の前に猿の檻が出てきたのだ。ついそこで用を足してしまった。おかしな夢もあるのだのう。樹、夢占いできるのだろう? 占ってくれ」

 巨体を揺すってねだる伽羅に、樹は面倒ながら返事だけはしてやった。

「大吉」



戻る 進む
目次


Copyright©2002 Riku Hidaka. All Rights Reserved.