一.


 時は1706年。
 場所は天下の江戸城敷地内。

 ……片隅。


「なぁーんで我躯斬龍(がくざんりょう)使っちゃいけねんだよ。おい御頭、聞いてんのか!」

 薬で脱色した黄色の髪を振り乱し、早朝から高井宏幸は叫んだ。右手には一振りの刀が握られている。もちろん鞘には納まってない丸裸の刀だ。その後ろに三人の子分が立ち、事の成行きを見守っていた。あくまでも、傍観。

「これから入隊試験だからだ。何度もやかましいぞ、高井」
「何度もやかましいのは御頭の方だぜ。ダメダメダメダメばっかし」
「一昨年の入隊試験当日の早朝に我躯斬龍で乱闘騒ぎを起こし、地面を木っ端微塵にして使い物にならなくしてくれたのはどこの誰だ、え?」
「俺だよ。だからどーした」
「開き直るな、馬鹿者! おかげで近所の道場を借りるハメになったんだろうが。将軍お抱えの隠密衆ともあろうものが、頭を下げて道場を借りるなんぞ二度と御免だ」

 宏幸は刃を天に向けて肩に乗せ、退屈そうにトントンと動かした。猫目がじぃっと御頭を睨みつける。その左頬には、熊にでも引っかかれたような三本の傷が走っていた。目尻と眉尻の角度が逆方向に向かっているせいか、それとなく人相が悪い。しかし下衆のような顔とはかけ離れ、幾らか女好きのする顔立ちだった。

「お前の目付きの悪さで俺が怯むと思うなよ。とにかく駄目だと言ったら駄目だ」
「ケーチ」
「農民の子供みたいな事を言ってるヒマがあったら、受付けの準備でも手伝ってこい」

 そう言って御頭が袴の裾を翻し、背を向けた時。

 背後で砂利を踏む音がした。

「ん……?」
「ダメなら力ずくで鍵を取ってやる。ていうか最初からこーすりゃいいんじゃねぇか」

 振り返った時には宏幸が地面を蹴って高々と宙に飛び上がり、白刃を陽光に反射させながら、もろともに降下してきていた。背後を完全に取られた御頭は、しかし動じた様子もなく、左手で腰の物を抜き放つ。
 金属のぶつかり合う音。
 傍観していた三人が一斉に耳を塞いだ。

 漆黒の鞘に収まったままの刀が、宏幸の白刃を受けていた。それも、片手で。
 上から体重をかけて振りかざした刀を、御頭は片手で防いだのだ。
 鞘でぐいと押し返し、宏幸が着地したのを見届けると、不敵な笑みを浮かべて言った。

「俺に奇襲をかけるとはいい度胸だ。だが、まだツメが甘いようだな」
「じゃ、コレならどうよ」

 言い終わらぬうちに宏幸の片足が浮き、鈍い音が響く。

「…………」
「あらまー、失礼。腕を使う運動ができないなら足を鍛えようかと」

 余裕の顔で見下ろしていた御頭の首に、回し蹴りを食らわせた。後ろの三人がおおーっと手を鳴らし、ゲラゲラと笑い出す。倒れこそしなかったものの、首への衝撃から鼻血を垂らした御頭は、鼻頭を押さえたまま肩を震わせて呻いた。

「……貴様ッ、今日こそクビにしてやるぞ!」
「それもう四年前から聞き飽きた。おら、鍵よこせよ」
「ない」
「鍵。は・や・く」
「聞こえなかったのか。ないと言った」
「じゃーどこにあるんだよ」
「どこかに落とした」
「…………」

 鍵を受け取る為に差し出していた宏幸の右手が、わなわなと拳に変わっていく。

「何やってんだよ、このドン亀茶坊主ド近眼バカ!」
「やかましい! だから探していたんじゃないか! そこにお前がひょこひょこ現れて我躯斬龍を使わせろだの言うから、探すに探せなかったのだ!」
「んなこた知るか! スペアねーのか、スペアキーはよ!」
「あったらこんな所にいるか、馬鹿者!」
「バカはテメーだ、ヌケサク!」

 低脳な罵り合いを傍観していた三人はようやく足を動かし、二人を止めに入った。このままやらせておくのも幼稚な喧嘩が見られて面白いかもしれないと思ったが、そこはそれ、彼らも鬼面を隠した保父ではない。

「高井さん、町行こうぜ町。俺らまで鍵探しを手伝わされる事になりそうだし」

 宏幸は御頭の足元に唾を吐き、手馴れた素早さで刀を収めて大股に門を出て行った。


 紺袴の正装姿でぽつんと立ち尽くす御頭───葛西浄次(きよつぐ)は溜め息を吐き、正面に佇む巨大な檻のようなものを見つめた。

「……さてどうしたものか。鍵が見つからなかったら……」

 一昨年の醜態をもう一度繰り返し、道場に頭を下げる自分を思い浮かべる。

「……それだけは死んでもならん……!」

 首を振ると鼻血もそこら中に飛び散り、浄次は心底から泣きたい気分だった。




「あ、(やす)くん。ちょっとごめん、これ運ぶの手伝ってくれないかな」

 能醍保智(のうだいやすとも)は、すでに城外に並び始めた入隊試験の応募者の見回りを任され、門へ向かうところだった。六尺二寸という均整の取れた筋肉質の長身の上に、無愛想な顔が乗っかっている。その首が声の方へくるりと向くと、大きな長机を引きずって齷齪している隊士と目が合った。

「圭祐、何でお前がそんなのを一人で運んでるんだ?」

 下谷圭祐(けいすけ)は苦笑して額の汗を袖で拭った。

「受付担当だから。でも昨年使ってた机が壊れたみたいで、今年からこの机を使うんだって」

 コツコツと重そうな机を叩いて見せる彼は、どこから見ても美少女としか思えない容貌をしている。ほんのり色付いた赤い唇が妙に艶めかしく、非道と囁かれる隠密衆の隊士にはとても見えない。そのテの趣味がなくとも見惚れてしまうほどの美貌だった。あまつさえ小柄で華奢で色白、という三拍子をもれなく兼ね備えている。

「ずいぶん高そうな木材だな……今年の資金が危ういらしいのに」

 保智は机に近づいて木目を見る。綺麗な木目が幾重にも渦を巻いていた。

「誰が言ったの? 御頭?」
「老中の勝呂様だよ。うちがあまりにも遠征だの我躯斬龍の修理だので浪費が多いんで、経費削減されるらしい」
「御頭からは特に聞かされてないけど、深刻だね」
「俺も、隠密衆は無駄金使いすぎると思ってるけど」

 圭祐はまた苦笑して、相方である保智を見上げた。
 同性としてのコンプレックスも多少はあるが、それ以前に保智は圭祐の目から見てかなり「男」らしい。無駄のない筋肉と精悍な顔立ち。無愛想な表情を欠点としなければ、相当見栄えがする。そのくせ女っ気がないので、女中の間では妻の座を争って立候補者が多いとか何とか。

「門の前に置いておけばいいんだろ。俺が持ってくから、他の用意しろよ」
「え、でも重たいから一緒に……」
「ケースケ。そんなのは木偶の坊にやらせておけばいいんダヨ」

 いつの間にか、圭祐の背後に男が立っていた。ポン、とその肩に両手が置かれる。

「オハヨウ」

 麻績柴(おみしば)甲斐の口元がふっと弧を描いた。緩くセットしてある髪はいつも完璧、声は女なら誰もがとろける魅惑のテノール。白皙の美貌も裏切らない。

「おはよう、甲斐くん。寝坊?」
「珍しくネ。昨夜の太夫がなかなか帰してくれなくて、明け方に帰ってきた」
「また遊んできたのか、甲斐」

 圭祐の正面から保智の不機嫌そうな声が飛んできた。

「入隊試験の前日くらい控えろよ」
「大丈夫、大丈夫。ヤスと違って、こんなことで日中にへたばるような体じゃナイから」
「そんなに体力有り余ってるなら、この机持ってってくれ。俺は外の見回りがあるんだ」

 つっけんどんな態度で机を指差し、明らかに立腹したらしい保智はスタスタと去っていった。

 甲斐はひょいと肩を竦めて圭祐の横にある机に手をかける。長身だが、痩躯の体からは想像できないほど易々と片手で机を持ち上げ、小脇に抱えた。

「じゃあおれが運びましょうかね」
「ありがとう。ごめんね、重たいでしょ?」
「そこらの太夫よりは軽いヨ。まあ、一番軽いのはケースケかな」

 甲斐は笑って、石畳の上を軽い足取りで歩いていった。
 その背を見送りながら、圭祐は曖昧な表情でひとり苦笑する。

「……気にしてるのに。甲斐くんは人の痛い所を突くのが上手だな」



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