十九. 深慈郎の襟首を掴み、元来た道を往復していた冴希は、神田川の河原に見知った人物を発見して足を止めた。横でひいこらと息をついている深慈郎の襟を離し、寸刻迷って河原に下りる。 正午の水面は眩しいほど光を反射し、額に手を翳さねば目を開けられない。 沙霧と決別した今日、空は何故こんなにもバカ明るい天気をしているのかと恨めしく思った。地から立ち昇る積乱雲は雨を降らす気配もなく、厚い層の中で時々稲妻を走らせるだけだ。こんな日には、大雨でも降ってくれれば清々するものを。 胡坐を掻いて背を向けている人物は、砂利を踏んで近づく音に気付いていないようだった。下を向いたり川の方を向いたりと、下品な色をした頭の動きは忙しない。 能天気で何も考えていない彼を含め、すべてが憎たらしくなって足元の石を蹴った。 それは山吹色の薄い羽織を着た彼の背中に当たり、虚しく落ちる。 「何しとるん。弥勒」 両ポケットに手を突っ込み、幼馴染の後ろに立った。背中を擦って振り向いた弥勒は、冴希を見上げても別段驚いたような素振りは見せなかった。 「なんや、ジャリンコかい。自分こそ何しとんねん」 「アタマに来てるとこやねん」 もう一度石を蹴って背中に当て、隣に腰を降ろす。 立っていると眩しかった水面も、座ればそれほどではなかった。 ただ白く光る水が揺ら揺らと、魚の通った道を示すように波紋を広げていく。 「食うか?」 目前に弥勒の手が伸びてきて、笹の葉に包まれた握り飯が差し出された。 冴希は胡散臭いものでも見るような目付きでそれを見下ろす。 「どこからかっぱらって来たんよ?」 「畑のじーちゃんがくれてん。めちゃうまいで」 今朝の討伐で甲斐に追い出された弥勒は、畑仕事に来た老人を自宅まで背負って連れ帰った。もちろん冴希はその事を知るはずもないが、どうせ人の家に勝手に上がり込んで長話した挙句、飯まで食わせてもらったんだろうと判断する。 いらないと言いたかったが腹の虫が鳴り出し、渋々握り飯を受け取って笹の包みを剥がした。いつもなら三口でぺろりと平らげる冴希は、しかし失意が大きすぎて食欲が湧いてこない。 米粒の数を無意味に数えながら、それもすぐに飽きて視線を上げる。 鳥が一羽、川に嘴を突っ込んで魚を攫っていった。 「沙霧姉、辞めてもたで。衛明館を出て行きよった」 「え、ほんま? したら、あのチチが毎日見られへんと名残惜しいわなー」 「あんた、チチしか興味なかってんか」 「おう、チチしか興味ないねん。男やし」 「男やのうてサルやろ」 「なんぼでも言うたらええわな」 毎日毎日飽きもせず沙霧に近寄ろうとしては蹴倒されている弥勒が、やけにあっさりしている。冴希は不審を通り越して不気味に思い、弥勒の顔を凝視した。 「悪いもんにでも当たったんか……? まさかこの握り飯……」 「悪いもんに当たったんはジャリンコの方やろ。握り飯はうまい」 弥勒は最後の一口を食べ終え、笹の葉についた米粒を指先で取っては口に入れる。平らげた笹の葉を折り重ね、箱舟を作って水面に浮かせた。ゆったりとした流れに身を任せ、笹の箱舟はくるくる回りながら下っていく。 「沙霧に何て言われて帰ってきたんか、当てたろか」 砂利の上に寝そべった弥勒の横で、冴希は手の中の包みを握り締めた。 「ほやな、『辞めたから何だっちゅうねん。お前に関係ないやろ』てな具合か」 沙霧が辞めたと教えただけで、上野での一悶着まで見通されている。どこにそんな頭の回転力があったのか、今までの言動からは想像もつかなかった。あの場にいたわけでもないのに、この阿呆はなぜ分かるのだと腹立たしくなる。勉学も出来なければ腕も自分と似たりよったりの程度だろう、この弥勒が。 「……あんたに何が分かるん。うちは沙霧姉がいたから」 「いたから今日まで頑張ったんか」 突き離すような声が冴希の主張を遮る。 「沙霧が居てへんかったら、お前はただのジャリンコか」 握り飯がぐしゃりと潰れ、崩れた包みから米粒が飛び出した。 「沙霧が辞めたかて、お前が持っとるもんは何も変わらへんのとちゃうか」 「うちが持っとるもんとか、そういうんと……」 「目の前にオカンがおらんと何もでけへんチビッ子ちゃうやろ」 冴希の心の奥で燻ぶっていた何かが、するりと体外へ抜けていく。 どうして沙霧が辞める事に反対していたのか。 沙霧の背を見て、そこから学びたい事があったわけでもない。 学びたい事はこの一年で十分叩き込まれていた。 なのに、辞めて欲しくなかったのは何故だろう。 そこにあった理由は、一体何だったのか。 「沙霧姉がおらん隠密衆なんか、想像できひん」 「けど、自分はなぁんも変わらへん。沙霧が居てるから強うなれるわけでもなし、沙霧が居てへんからダメダメになるわけでもなし」 「や、ダメダメになるわ。遠征の時は沙霧姉一人でン百人を相手にやっとってん」 「そらおおごっちゃ! わいらの仕事が増えてまうやん!」 「仕事してへん自分が何言うてんねん!」 「せなあかんようなってまうやん!」 「それが当たり前やんか!」 弥勒の腹にカカトを落とした冴希の耳に、相変わらず落ち着きのない深慈郎の声が土手の上から飛んできた。 「椋鳥さーん! 雨! 雨が降ってきましたよ!」 空を見上げると、頬の上にぽつんぽつんと大粒の雨が落ちてくる。冴希の瞬きを合図に、桶をひっくり返したようなどしゃ降りの雨が降ってきた。呻いていた弥勒が勢いよく起き上がり、あかん、と呟く。 「わいの箱舟……こら、シン! 川に入ってわいの箱舟を探せや!」 「な、なんで僕が川に入らなきゃいけないんですか!?」 「子分やろ! つべこべ言っとらんと探せ!」 逃げる深慈郎を追いかけて、弥勒が土手を駆け上がっていく。 冴希は潰れた握り飯を葉で覆い直し、懐に入れてその後を追った。 「俺の息子ながら、救い様のないバカだなー。任せたのはちと早すぎたか」 池に落ちた浄次を救うでもなく、浄正は畳に寝そべって片肘を突く。 「今頃分かったんですか」 いつの間にか亀の姿になっている玄武を手にした沙霧が、浄正を見下ろして溜息を零した。甲羅から垂れている頭を一突きすると、短い手足がぴゅっと引っ込む。 「沙霧がうちに嫁いできてくれたんだし、もーどうでもいい」 「嫁いでません」 「照れなくてもいーのに。大奥がいるからって気にする事ないぞ」 浄正の爪先が縁側の皓司を示した。 なんとバチ当たりな、と慄く隊士は幸いここにはいない。 「それにしても、可笑しいですね」 尚も寝ている白虎の頭を撫で、皓司は室内の沙霧を見上げた。 「先代が辞めるとおっしゃった時の貴女と、心境は同じだったのでしょう。あの子」 沙霧は珍しく苦虫を潰したような顔を作り、縁側の傍に腰を下ろす。亀姿の玄武を朱雀の手に押し付け、面倒臭そうに長い髪を一つに束ねた。 「そういう事を言いますか……。冴希と私とでは決定的に違う所がありますけど」 「頭の良し悪しですか。それとも手足の長さでしょうか」 冗談なのか本気なのか分からない皓司の微笑に、沙霧はつい苦笑する。朱雀の腕の中で欠伸をする亀に手を伸ばし、閉じようとする口に指を入れた。驚いた玄武の口がまた開いて固まっているのを見て、謝るように鼻先を突付く。 「私には、隠密衆を測るものが御頭しかいなかった。御頭の采配はいつ如何なる時でも正しかったし、異論を唱える隙もないほど完璧な組織だったから」 そこにはあなたの存在もあったと皓司に告げ、沙霧は庭に目を向けた。 「あの子には───冴希には、組織そのものは問題じゃないんです。隠密衆がどうであろうと、まだ自分の事しか見えていない。だから置いてきた。いつか冴希が組織のあり方について不満を持ったら、その時は私の気持ちも分かってもらえるはずです」 その時には、冴希が生きているかも分からない。 その時には、隠密衆が存続しているかも分からない。 けれど、自分の居場所はあそこにはないのだと分かった。 力のある場所に必要とされたい。 力のない場所に手を貸しても、あのままでは意味がない。 浄次に自覚がない限りは、今の隠密衆で何をしても自分には無駄だった。 「ま、今の浄次に入隊試験の意味を教えても通じんだろうな。勝呂の小僧が一枚上手で、資金問題にばっかり目が行っちゃってるし」 よっと声を上げて身を起こした浄正は、開いた袷に片手を入れて欠伸を洩らす。 「地獄の沙汰は金次第、組織の沙汰は人次第。臨戦できる隊士が揃ってなけりゃ、資金なんかいくらあったってしょーがないのにな」 必要がなくても、浄正の代では毎年入隊試験を行ってきた。 腕の立つ者を一人でも多く雇い、いつ誰が交代しても同等もしくはそれ以上の戦力を保てるように鍛え上げる為。 その為には、金は惜しまない。 幕府の安泰を守る為には幕府から、国の治安を守る為には国民から。 隠密衆になければ困るのは、金そのものではなく隊士だ。 その事を民と御上に説き伏せて資金を貰い、入隊試験で猛者を引き入れる。 浄次にはまだ、その連鎖が分かっていなかった。 「古きは新しきを見て己を活し、新しきは古きを見て己を読く。御子息はこの意味を理解しておられないんですね」 「単純に入隊試験の事だと思ってるんだろうな。お前の親父の言葉はヒヨッコにはもったいない」 浄正はふらりと縁側へ移動し、軒下から空を見上げた。 鼻の上にぽつりと雨が降ってくる。 やがて俄かに降り出した豪雨は、池の水を溢れさせて庭に広がった。 「なーんで俺の息子はいつまでもあーなんだろうね、皓ちゃん」 「節操がなくて万年発情しているという意味ですか」 「いや、それは俺のムスコ違いだから」 室内で一人黙っていた樹は、雨音で目を覚ました。いつ寝たのかも覚えていない。 隣にいたはずの青龍がいなくなっている事に気付き、縁側を見た。 「おい、四神の一匹が消えてるぜ」 しかし誰も振り返らず、浄正に至っては庭を見ながらにやにやと笑っている。 (……アホ倅の救出に行ったのか) 神もラクじゃねぇなと独りごち、樹は誰に見送られるわけでもなく屋敷を後にした。 |
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