十八. 壁に額を擦りつけながら、浄次はずるりと畳に崩折れた。首の感覚がない。 もしや首だけになっているのだろうか。 手足を動かしてみる。痺れた身体は脳から伝達される指令を拒み、機能していないようだった。本当に首だけになっているのかもしれない。 鳴り止まない悲鳴のような、甲高い音が鼓膜を揺さぶる。 半ば意識を手放しつつ、浄次の頭は昨夜の出来事を再生し始めた。 「私は断固反対です」 夕食後、沙霧は部屋に入るなり座りもせずに切り出した。 「経費削減の為に入隊試験を実施しないなどと」 「致し方ない事だ。資金は床から沸いて出ているわけではない」 浄次とて、入隊試験は楽しみの一つでもある。腕に自身のある猛者が集まる中、隊士として引き入れたい者を選別する時の高揚感は言葉にならないほどだ。自ら率いる組織をより強化する事、それは日々の鍛錬にも似ている。刀を振るう事が隊士個々の鍛錬ならば、入隊試験は隠密衆という組織そのものを鍛える為の行事とも言えた。 『古きは新しきを見て己を活し、新しきは古きを見て己を読く』 先代御頭であった父は、現役時代にそう語った。 浄次の物心がついた頃から、寝る前に言い聞かせられてきた言葉。 しかし父の言葉ではない。 とある人から『隠密衆』に貰い受けた言葉なのだと教えてくれた。 温故知新とは違うのかと問えば、「そんな生易しいものじゃない」と笑われた。 いずれ、お前にも分かる時が来る。 隠密衆が何の為にあるのか、何を為さねばならないのか。 何を犠牲にしてでも全うしなければならないのか。 犠牲にするものは惜しんではならない。 それだけの価値があるから犠牲になる。 この言葉は、その上に成り立っているものだ。 御頭となって真っ先にその言葉に当て嵌めたのは、他でもない入隊試験だった。 現役隊士は新人を見て己を省み、新人は現役隊士を見て己を超える。 初めは、まさにこの事を言っていたのだろうと思った。 だが、父の口から語られた言葉の重みほど手応えがないと気付いたのは、つい一、二年前。こんな簡単な事ではないはずだと首を捻った。 それを悟るのには、まだ経験がなさすぎる。 「何の為の入隊試験か、葛西殿は本質を解していらっしゃらないのか」 戸口に立ったまま、沙霧は切れ長の双眸を細めて見下ろしてきた。普段にも増して静かな声だったが、そこに少なからず怒気が孕んでいるのが分かる。 面倒な手間を嫌う沙霧がここまで反対するとは思っても見ず、浄次は動揺を隠す事に精一杯で、手近にあった帳簿を読むわけでもなくパラパラと捲った。 「隊士の補充は、年内に大掛かりな討伐がない限りは不要だ。今現在の戦力が十分だとは言わんが、不十分でもない。人員が必要になれば、夏でなくとも入隊試験を設ける事はできる」 不自然なほど何度も帳簿を捲る浄次の手元を見て、沙霧は一寸押し黙る。真上の部屋でどたどたと足踏みをしているような音がした。沙霧の沈黙と二階の音が異様に長く思える。実際にしてほんの僅かな時間だが、その間に浄次は五回も最初から帳簿を捲っていた。 やがて、騒音が止むと同時に沙霧の溜息が聞こえる。鼻で一笑したような、短い吐息の排出音だった。 「あなたの御見解はよく解りました。用はそれだけです。失礼」 沙霧が何故そこまで入隊試験にこだわるのか、浄次は理解に苦しむ。 新人を鍛える事に興味などないはずだ。実質、彼女の驚異的な戦力だけでも隠密衆の七割方は占めている。やろうと思えば十割を占める事も可能だろうが、あくまで隠密は一人の組織ではない。お飾りというわけでもないが、残る三割の戦力も組織を形成する為には必要だった。 半刻ほど経っただろうか、襖を叩く音がしてギクリとする。しかし名を告げた声が沙霧のものではなかった事に我知らず肩の力を抜き、帳簿を放り投げて返答した。 仕立てのいい羽織を着た隆が入ってくる。 「貴嶺さんとはお話がついたようですね」 隆は微笑と共に腰を降ろし、帳簿を手に取って膝の上に広げた。 「ついたも何も、試験中止は断固反対だの一点張りで帰ったぞ」 「じゃあ、私が一点張りをしても二度手間ですねえ」 「……寒河江も反対派なのか」 夕食前に今年の入隊試験はないと告げたら、隊士達はこぞって盃を掲げたものだ。なければ一日暇が取れると喜んでいる隊士の顔つきを見て、皆面倒なのだろうと思っていた。 それがどうした事か、幹部の二人には強く反対されている。 「御頭は入隊試験が楽しみなんでしょう? 幕僚からの風当たりもお察ししますが、規模を縮小してでも実施する事については考えていませんか」 「縮小するぐらいなら、実施しなくても変わらん」 「さて、そうですかねえ」 帳簿を一頁ずつ読みながら、隆は持ち前の呑気な物腰で顎を擦った。 「個人的な我が儘を言わせて頂くと、うちは一人でも二人でも欲しいですよ」 一体なんなのだ───浄次は面食らって隆の顔を見つめた。龍華隊も氷鷺隊も、隊長がこの大物二人である限り戦力に不足はないはずだ。むしろ野放図の虎卍隊を総勢入れ替える為というなら、一年分の資金を使い果たしてでも即実行したい。 「一人や二人入ったところで、氷鷺隊の戦力が今以上に上がるわけでもないだろう。隊士の中に問題でもあるのか?」 それぞれの隊にはそれぞれの揉め事がある。 隆の隊に限って問題があるとは思えないが、実は大問題があるのかもしれないと、少し探りを入れてみた。 相変わらず帳簿の三頁目を読み耽っている隆は、ふと笑って顔を上げる。 「問題はありません。うちの隊士はみんな良くやってくれていますよ。協調性もあるし、団結力もある。圭祐は隊士をまとめるのが上手ですし、保智は何だかんだいっても責任感が人一倍あります。贔屓目ですが、うちは一番安定しているんじゃないかな」 「では何が不満なんだ?」 「うーん、何が不満なんでしょう」 「おい……」 食えない男だと内心辟易する。話し上手聞き上手でありながら、肝心な事は霧中に隠すのだ。分からないのなら、分かるまで霧の中を彷徨えとでも言う風に。 隆が出て行った後、浄次は途方もなく心労を覚えて風呂に入りそのまま寝た。 そして、うっかり寝坊した枕元に置いてあったのが、件の辞表だった。 「生きてるかー、浄次」 沙霧の回し蹴りを喰らい、浄正の真横に激突した浄次の耳が音を取り込む。浄正は明らかに身を避けましたという体勢で、肘の下にあった『俺の箱』とやらが遠くへ滑っていた。 「……父上」 「ん? なんだ?」 「父上は……御上と資金問題で揉めた事はないのですか……」 「全然。いつも皓司が代理で城に上がってくれてたし」 なんと都合のいい人か。 苦手な事はその道のプロに任せ、否、その道に長けている──交渉上手である──皓司がいたから、父の代は資金問題など起こらなかったのだろう。とことん人望に恵まれている父を持ち、浄次は相対する自分の境遇を呪った。 「なぁーんてのは嘘でな」 身体をくの字に曲げたまま撃沈している浄次の横腹を、浄正の足がぐいと押して仰向けにする。 「これでも毎月お偉方と膝つき合わせてたんだぞー。どうだ、凄いだろう」 何が凄いものか。当たり前だと拳を振り上げたいのに身体が動かず、浄次は霞む視界のど真ん中に父の影を捉えた。浄正の指が眼前に現れ、眉間を突付いてくる。 「誤解のないように言っておくがな、浄次。俺は皓司に資金問題を上訴してくれと頼んだ事はないし、頼もうと思った事もない。皓司には『現ナマで即使える金』の管理を任せていただけだ」 申し分のない額を御上からきっちりぶん取ってな、と白い歯を見せた父の器はどこまで底知れぬのか。父に交渉の才能があるとは思えないが、人徳でどうにかなっていたのかもしれない。勝呂のような小姑老中がいるのも、己の運の悪さで片付くというものだ。 「御世辞にも、先代は交渉上手とは言い難い御方でしたね」 浄次の単純な思考はお見通しとばかりに、縁側から皓司の声が響く。 「御子息と大差ない程度には交渉術を持っておられましたが」 「それ思いっきりヘタってことじゃん」 「間違った事は申し上げておりませんよ」 隠居同士が笑みを交わしたところで、浄次はようやく感覚を取り戻してきた上半身を起こした。首が胴体から離れているような感覚だが、喉元に手をやると止血の為に巻かれた鉢巻が触れる。 つまり自分は父譲りの交渉下手で、父譲りの隠密衆を資金不足に悩ませ、父譲りの顔も御上には通じないという事だけはよく分かった。 しかし、疑問はまだ残る。 「資金不足は俺の至らなさだと認めるが、沙霧の辞職理由は未だに解せん」 顔を上げ、そこに立つ鬼相の美女と目が合った。 刹那、浄次の身体が強制的に畳から浮き上がり、宙を飛んで縁側を越えていく。 「いい眺めだな。倅の表情、見た?」 「老眼ですので見えませんでした」 頭上を見上げていた朱雀と皓司は揃って首を巡らし、飛沫を上げて庭の池に落ちていく浄次の爪先を見届けた。 |
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