十七. (えらいこっちゃな……) 浄次の真後ろに正座している冴希は、内心で呟いた。 ここが先代御頭の家でなければ即座に浄次を押し退けて沙霧に食ってかかったところだが、側近の皓司を始め、普段はあまり沙霧の周りに姿を現さない四神まで勢ぞろいの四面楚歌。下手な事ができない状況だというのは、冴希でも十分理解できる。 右隣をちらりと盗み見ると、深慈郎は小刻みに震えながら半ば祈るように沙霧を見上げていた。左隣の祇城に至っては、相変わらずの無表情。だが、沙霧を見上げる彼の視線はどこか愁いを帯びていた。まるで捨てられた犬のような顔をしている。 唇を噛み締め、冴希は膝の上で拳を握った。 衛明館を出た時は簡単な事だと思っていただけに、沙霧の頑なな態度には驚きよりも怒りが湧き上がってくる。 初めて沙霧と出会ったのは、他でもない入隊試験の初日。なかなか試験会場に入れてもらえず、保智を押し退けて江戸城の塀に登った。そこで、両手を袖の中入れた沙霧と目が合った。 最初は、探るような視線。次に、背中の刀を見られた。 そしてまた、翠玉の目が向けられる。真っ向から見据えられたその眼光は、確かに自分の力を認めてくれた目だった。 ───試合が楽しみだ。我躯斬龍で会おう あの言葉が本気を含んでいた事は、今だから分かる。 小娘だの餓鬼だのと言わず、冴希の持つ力を見極めた上での本気。 それなのに、突然何も言わずに辞めてしまった。 冴希の中にあった一つの目標が、あっさりと消えてしまった。 「……あーもう、我慢でけへん! 帰るっ」 勢いよく立ち上がった冴希に、深慈郎が裏返った声で驚く。祇城はちらりと冴希を見上げ、白刃を抜いている沙霧へと首を戻した。 「沙霧姉、見損なったで」 浄次を挟んで沙霧と対峙した冴希は、浄正の視線をはっきりと感じていたが、敢えて気付かぬ振りで沙霧だけを見上げる。 「一年前の沙霧姉は尊敬に値する人やったけど、今はただの姉さんや」 「それがどうした。どこにいようと、何をしていようと、私は私だ」 期待する方が間違っている。 そういう事かと、冴希は両脇で拳を震わせた。 「せやな。辞めるも辞めんも、沙霧姉の勝手やもんな。ああ、せやせや」 ぞんざいに手を振り、深慈郎の襟首を掴む。何か言おうとした深慈郎を小突いて黙らせ、踵を返して廊下に出た。視線は感じない。理由も聞かせてもらえない自分が不甲斐なくて、その程度だったのかと悔しくなる。 沙霧とは、今日限りだ。 腹の底で燻ぶる怒りを残したまま、冴希は上野を後にした。 二人が出て行った後、取り残された祇城はどうするべきか迷う。斜め前に座っている浄次の背中は、何を考えているのか分からなかった。沙霧は興醒めしたように明後日の方を向き、白木の鞘に刀を収めている。 静まり返った場に、鳥の鳴き声が響いた。一羽のスズメが浄正の膝に留まる。 「さて、と。どうするんだ、浄次?」 スズメの頭を指先で撫でながら、浄正が場の進行を促した。 「帰るもよし。まだ居座るなら、沙霧と決着つけていけ。その為に来たんだろう」 決着と聞いて、浄次の肩がぴくりと揺れる。祇城としては、どんな形で決着がつこうと沙霧の口から辞意を聞きたいのが本音だった。浄次の答え次第では引き止めるつもりでいる。 ふう、と浄次の口から溜息が漏れた。張り詰めていたものをすべて吐き出したような溜息に、沙霧の冷ややかな視線が僅かに注がれる。 「帰る気はありません。俺はまだ、沙霧から何も聞いていない」 祇城が安堵の息を付くのと沙霧が忌々しそうに息を吐くのと、それは同時だった。 沙霧の影がゆらりと動く。 「しつこい男だな。それだけの粘りが、何故仕事に出ない?」 「なに……?」 初めて沙霧の方から問われ、浄次は動揺を隠せないまま顔を上げた。眼前に立っている沙霧に正面から見据えられ、浄次の頬が自然に強張る。 「私一人の辞職にそれだけの執着心を見せながら、隠密衆そのものには関心がないようだな。自覚がないと言い換えてもいい」 部屋の隅で、浄正が何度も頷く。浄正には沙霧の辞職の理由が分かっているらしい。祇城はそう判断し、浄次の背中を伺った。 すっと浄次が立ち上がる。 「確かに、俺には自覚が足りんのかもしれん。だが、隠密衆を率いる事に関心がないわけではない。それだけは言っておく。父上の代のように行かないのは、俺自身が誰よりも身に沁みて分かっているつもりだ」 浄次の言葉に、沙霧は眉間に皺を刻んで腕を伸ばした。胸倉を掴まれた浄次の左足が一歩退がる。 「分かっているのなら、昨夜の貴様の戯言は何だ」 昨夜の───それは、祇城の与り知らぬ話。 夕食後、沙霧が珍しく浄次を呼び止め、二人で浄次の部屋へ行ったのは知っていた。半刻経って隆が広間を去り、自室に戻ろうとした祇城は、彼が浄次の部屋の襖を叩いたのも見ている。 そこで、何があったのか。 沙霧と隆、そして浄次。実質的に役割を果たしている隊長二人と、御頭。 平隊士の祇城が内容を知る由もないのは当然だ。 しかし、どうしても知りたい。何故黙って辞めたのか。 否、そうではない。個人的な感情で理由が知りたいのだと、自分に言い直した。 空っぽの部屋を見て感じた思いが甦る。 何故、自分は捨てられてしまったのだろう、と。 鼓膜の奥で、波の音が聞こえた。生臭い漁港の匂いに混じり、潮風が鼻をつく。 何故、異国に捨てられてしまったのだろう。 座っている祇城の頭上で、浄次が何か言った。沙霧が一言を返す。浄次の足が畳を擦り、後退った。 「だから愛想を尽かしたんだ」 沙霧の声が明確に聞き取れた時、突風が吹く。浄次の身体が横に吹っ飛び、祇城の前髪がふわりと浮いた。驚いて顔を上げると、たった今振り上げたらしい沙霧の右足が元の位置に戻るところだった。 ───鬼神の相。 嫌悪を凌ぎ、軽蔑を凌ぎ、その顔はまさに戦場の沙霧が見せる冷酷な表情だった。 「隊長……」 思わず腰が浮き、祇城は自制も忘れてその前に歩み出る。沙霧の双眸が微かに動き、祇城を見止めた。 「隊長、今の話が理由で……」 「お前も帰れ」 ぐい、と胸倉を引き寄せられ、遠慮のない力で突き離される。壁に叩きつけられると思った背は、そこに座っていた者の腕によって衝撃を免れた。そのまま、へたりと座り込む。襟首を掴んでいた男の手が離れ、一度だけ頭に置かれた。 「ここに居たって、お前が探している答えは誰も与えちゃくれねぇよ。帰りな」 帰る場所は沙霧の所じゃないだろ、と囁く樹の声が、波の音に重なった。 自らの道は、自らで見極める。 誰も答えなど与えてくれないのだ。 沙霧は自らの道を決めて隠密衆を辞めた。自分にとって何が有利であり、何が不利になるのか見極めた。他人に流されず、在るがままの現状に促されず、物事を判断する事。 己に求められているのは、己の意思のみ。 沙霧の決断を否定しに来た事が馬鹿らしくなった。 立ち上がり、廊下に出る。 目礼して踵を返した背中に、縁側から流れてきた温かな南風が伝った。 |
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