十六.


 時は前後して、衛明館───大広間。

「ちょっと聞いてちょうだいよ、奥さん。うちのダンナったら、姐御の部屋の縁側で廃人になっちゃってるのよー」

 保智は目尻が痙攣するのを感じながら、しな垂れかかってくる宏幸に背を向けて口を閉ざした。先刻からこの調子で意味の分からない話を振られ続け、その背に尚もしつこく手が掛かっては無理矢理ぐるりと戻される。

「あーなったのも、前妻のアナタのせいでしょー」
「なんで俺のせいなんですか! ていうか、前妻って」

 まともに付き合わなければいいものを、妙なところで律儀な保智は冗句の一つにも突っ込みを入れ、自らややこしい事態に進めている事に気づいていない。襟を掴んできた宏幸の手首を握り、効果のない説得をしようと試みて痛撃を食らった。数刻前に『旦那』甲斐から受けた不当な暴力の跡が残る額に、宏幸の頭突きが上書きされる。

「お聞き! うちのダンナはね、あたいと結ばれてから今日まで一度も、いーっちども、あんな根暗な背中を見せた事ないのよ!」
「だから! 俺のせいじゃありませんってば!」

 ぐるりと一周する手首に力を入れてもぎ離すと、保智の力に勝てなかった宏幸は涙目になって天井を見上げ、腕が千切れる勢いで振り解いた。

「んなこた分かってんだよ! だから早く俺の姐御を返してくれよ!」

 分かっているならいちいち絡まないでくれ───
 自分の相方とその姐御に何の関係があるのだ───
 等々、保智の憤懣は舌の上までせり上がってきたが、圭祐に呼ばれたのをいい事に半狂乱の宏幸を押しやり、半ば逃げるようにして場を去った。


 冴希と深慈郎が上司を連れ帰る為に旅立ち、無言で立ち上がった祇城が浄次を引き摺ってその後を追い、隊士達は四人に全てを託して雑魚寝の体。一時は総勢で上野へ押しかける案が飛び交い、危うく黒服集団の大名行列が城下町を混乱に陥れそうになったものの、最年長の隆がうまく宥めて現在に至っていた。

 沙霧が辞めた事は保智にも少なからず衝撃的な事件だが、自分が慌てたところで解決されるわけでもない。何より、彼女自身がそうするべきだと決めた上の行動ならば、誰が異論を唱えようと無駄な事。そんな考えが先に立ち、表向きは平静を装っていられるのだ。

「何かあったのか、圭祐?」

 心なしか、廊下の方が涼しいような気がする。
 圭祐に呼ばれて廊下に出た保智は、襟元をぱたぱたと広げながら窓枠に寄りかかり、上半身を反らせた。澄みきった青空へ居丈高に立ち昇る積乱雲を見上げ、一降り来そうだとぼんやり考える。

「特に用はないよ」

 相方の中性的な声が、すぐ隣からあっさりと返ってきた。
 何だそれは、と頭を戻すと、腹を窓枠に押し付けて身を乗り出している圭祐と一瞬だけ視線が合う。ふっと、目元で笑われた気がするのは気のせいか。

「保くんが困ってるみたいだったから、逃れる口実になるかなと思っただけ」

 ずるりと腕が滑る。
 回る視界が止まった時には、窓の向こう側に背中から落ちて空を見上げていた。

「大丈夫……? 急にどしたの」

 さらに乗り出した圭祐の顔が、空と自分の視界を遮る。

「……べ、別に。窓が低すぎて」

 腰の位置より窓が低いからといって、そこから落ちた長身の隊士は一人もいない。言い訳ならもっとまともな言葉があるはずなのに、咄嗟に口を突いて出てきたのが衛明館の歴史に残りそうな恥の一コマだった。

(どうしてこうも、機転が利くんだろう……)

 熱中症で半死していた宏幸を介抱していた圭祐も、内心では助け舟を待っていただろうに。顔に出さないから、何も気づかなかった。
 否───気づいてやれなかった。

「あ。分かった」

 保智の顔を見下ろしていた圭祐は身を引っ込め、次いで身軽に枠を飛び越える。無意識に身体がそうするのか、すとんと着地する音もしなかった。まだ仰向けになっている保智の腕を取り、しっかりと手を握ってくる。

「僕が高井さんを介抱してる時、なんで自分は同じ事ができなかったんだろうって落ち込んだ?」

 図星。
 何から何まで知り尽くされていて、嫌なのか返って有り難いのか分からない。保智の戸惑いを知ってか知らずか、圭祐は青空よりも澄んだ笑顔で見下ろしてきた。

「あの時言わなかった? 高井さんの所に行ってくるって」
「……そう聞いたよ」
「つまり、そういう事。自主的にしたんだから、僕は全然嫌じゃなかったよ」

 なるほど、と呟いた口とは裏腹に、保智の頭の中では疑問符が蝶のように飛び交う。それもすぐに、圭祐が腕を引っ張る掛け声に掻き消された。
 自分より腕力は劣るが、自分にないものを持っているのが彼なのだ、と納得して。




 白虎によって破壊された縁の上の瓦を見上げ、皓司は僅かに目を細めた。
 その隙間に姿を現している積乱雲の中で、一筋の閃光が迸る。

「白虎───ではなさそうですね。あれを呼んだのは」

 皓司の膝を占拠している白虎は、人と神の姿を行ったり来たり。また人型に戻っている彼は、目を開けるのも億劫だとばかりに寝返りを打って問い返した。

「あれって何?」
「神鳴りですよ。ほら」

 その声を待っていたかのように、最初の雷鳴が轟く。
 飢えた獣のような低い唸りは、ここからそれほど遠くない。

 天雷を司る白虎は器用に耳を動かし、片目を開けてちらりと空を仰いだ。

「あれは沙霧の。本気でキレると、たまにあーして無自覚で呼んじゃうんだよ」

 神世界の論は、人には通じない。
 が、『我が人生に不思議なし』とでも言いたげな落ち着きぶりで相槌を打った皓司は、幼い神の頭に隆起している部分を一撫でする。

「この瘤に落ちれば、陥没して元通りになるかもしれませんよ」

 神よりも神のような───むしろ悪魔のお告げに聞こえたのは気のせいだ。
 片耳の下にある着物を握り締め、白虎は丸めた身体をさらに丸めて戦慄(わなな)いた。



 高嶺の花を正面に構えたまま、口元を引き攣らせるばかりで一向に喋らず。
 そんな浄次の鈍さを見兼ねた朱雀は、退屈そうに両手を後ろに付いて片膝を立てた。足首を一周している珍しい形の装飾が涼やかに鳴る。

「桃李(ものい)わざれども下自ら(こみち)を成す───そこの豆粒。分かるか?」

 『豆粒』とは誰の事を指しているのか、問われた浄次以外は分かっていた。誰も反応しない座を目だけで見回し、浄次は最後に朱雀へと視線を移す。人の姿をした人ではない者、南方を司る神が、その方角に位置する縁側から笑い声を上げて薄い唇を開いた。

「そ。お前だよ、お前。浄正の(せがれ)

 一陣の風が彼の髪を煽り、肩の上で毛先を遊ばせる。

「何も喋らなくても花の香りに誘われた人々が木の下に集まり、そこには自然と小道が出来る。優れた人物の元には、自然と人が集まってくるってわけさ」
「それが……どうしたんだ?」

 浄次は眉間に皺を寄せ、文学にはからきしな己の頭を悩ませた。
 もっとも相手は神様であって、知らない事など何一つないのだろう。たかだか二十数年しか生きていない自分が知らないと正直になったところで、神相手なら恥じ入る事もない。妙な論理を組み立てて自己納得した浄次には、沙霧をどう説得して連れ戻すかの方が問題だった。

「兎に角も、さ……貴嶺。今回の辞ひょ」
「何度同じ事を言えば気が済むんだ?」

 雷を映す碧眼が真っ向から据えられ、ぞわりと鳥肌が立つ。
 討伐があるたび、沙霧が敵でなくてよかったと思った事は数知れず。
 しかし今のこの状況は、敵であるのと変わりないのではないか。
 ただ座っているだけでも戦場で対峙しているかのような殺気に気付き始めた浄次は、その腰元に沙霧の刀がない事を無意識に確認して安堵の溜息を吐いた。

「何度でも言わせてもらうぞ。明確な理由が分からなければ納と」
「私の口から理由を告げる気はない」
「ならば、辞める事は許さ」
「玄武」

 皆まで言わせず、沙霧は浄次を睨み据えたまま背後の玄武を呼ぶ。柱に寄りかかっていた巨躯が音もなく動き、何も持っていなかったはずのその手に、沙霧の刀『時雨』が現れた。浄次と後ろの三人は同時に生唾を呑み込み、玄武の手元から視線が外せなくなる。
 まさか、まさか、と念仏のように唱えるも虚しく、迫り来る恐怖は最高潮に達した。

 白木の鞘が肩に置かれ、無言でそれを受け取った沙霧が立ち上がる。
 南風を孕んだ銀糸が浄次の視界を覆い、背に陽光を受けた沙霧の体から鋼の光が放たれた。

「私を阻む者は、たとえ公儀であろうと敵と見なす」




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