十五. 「あ……あーっと! ヒヨッコ、うちの洟っ垂れ! 何だ来てたのか!」 異様な気配に包まれた室内で、元凶その1である浄正はエセ臭い笑顔を浮かべて慌しく立ち上がる。額に赤々と丸い跡を付け、廊下に立ち尽くす息子の元へ転がるように近づいた。 白々しく見えているのは百も承知だが、こうでもしなければ間が持たない。なぜならば、寝起きの沙霧が本気で怒りの電流を流している───起こしてはならぬ海神を叩き起こしてしまった浄正は、場を取り繕う前にここから退却したい一心だった。 「おおっ、血が出てるぞ!? こりゃ大変だ、おとーさんのマイ救急箱を持ってきてやるから、ちょっと待ってろ! おい樹、止血してやって!」 「へ? あ、そ、そうだな……ははっ」 沙霧の足元からそろりと離れた元凶その2の樹は、浄正と同じく額に赤丸をつけて浄次の前に歩み出ると、引き攣る口元に笑みを作って問いかける。普段なら悪態ついて無視を決め込むところだが、心境は浄正のそれと寸分違わず同じである。 「どうしたんだ?」 背後から伝わってくる怒りの電流に感電しないよう、穏やかに穏やかにと念じながら不気味な猫撫で声を発した。しかし深慈郎に訝しむ余裕はなく、おたおたと身振り手振りで何かを表そうとし、最終的に浄次の背中を押し出してくる。樹はその首の前後に空いた穴を確かめ、蛇の仕業だろうと判断した。 「オロッチに咬まれたのか。あれは毒ヘ……」 「どっ、毒蛇なんですか!?」 「ビなんだが毒は抜いてあるから心配ない」 当人よりも瀕死の形相で詰め寄ってきた深慈郎の顔面を押し返し、手から鉢巻を奪って浄次の首へ巻きつける。止血なのか絞殺なのか、どちらとも判断し兼ねる絞め具合で浄次を半殺しにしているところへ、『俺の箱』と彫られた如何にも即席の木箱を抱えた浄正が戻ってきた。 皓司の膝枕で気持ち良さそうに寝ている白虎の腕を蹴飛ばして縁側に座り、朱雀は隣を見上げて顎をしゃくる。 「あの豆粒、究極の阿呆だな。ここまで愚かな人間は初めて見るぜ」 沙霧の部屋に鉢植えや荷物を置いてきた玄武は、頷きもしなければ頭も振らず、がっちりと締まった腕を交差させて柱に寄りかかった。ほとんど口を開かず、聞き取る必要のある相手にだけ聞こえるような声を発する。 「少なくとも、今まで従属してきた主の周囲にあんな人間はいなかった」 「あんな馬鹿で阿呆で間抜けで知能の足りない害虫人間はな」 細やかに表情を変える人間臭い朱雀は、微塵も頬の筋肉を動かさない岩のような玄武に「座れよ」と床を叩くが、玄武はそれを一瞥して室内に目を遣った。 二人の視線の先では、顔が鬱血するほど首を絞められて止血を施された浄次が、今までに無く苛烈な眼光を放つ沙霧の前で胡坐の脚を落ち着きなく組み替えていた。かつては日本全土で鬼と恐れられた元隠密衆御頭の胸倉をも掴み、呆気なく足元に捻じ伏せたほどの美神・沙霧を前にしては、浄次の虚勢など子供が背伸びして父親の背を超えようとするほどに意味がない。 ところが浄次本人はそれがまったく無意味な事だと分かっておらず、電流を走らせる視線と目が合えば、こめかみを痙攣させながら親譲りの眼光で以って対峙する。 身の内にも外にも毒刃を持ち、触れれば祟りの如く雷を落とす沙霧。 中身は藁詰めの張りぼて大砲を構え、火を付ければ丸腰状態の浄次。 どちらが優勢かは、歴然の差である。 冴希と以下略の子分二人を背後に従わせた浄次は、斜め向かいに座る父にちらりと視線を投げた。『俺の箱』とやらに片肘をついて殿様姿勢の浄正は、神妙な顔を作って見返してきたが、実のところ気が緩めば笑い出しそうな目元をしているのが即座に見て取れた。 沙霧が百万ボルトの化身となったのも、元はと言えば父親が原因だ。何をやらかしたのか知らないが、おおよそ見当は付く。寝ている沙霧に不埒な事をしようとして返り討ちに遭ったのだろう。額をカチ合わせた樹も当然グルで。 隠密衆を辞めた父は、日増しに性欲と怠惰の権化になっている。 「隠密衆を辞めた沙霧に、なんか用があって来たんだろ? ヒヨッコ」 意識が明後日の方へ向きかけた浄次の耳に、愉快な音色を含ませて場の進行を促す性欲と怠惰の権化の声が届いた。 ああ、そうだった─── この時の浄次には、それは遥か未来の出来事のように感じられた。 沙霧の言葉無き圧力に押し潰され、現実から魂を切り離そうと意識が飛ぶ。 惜しみなく陽光を取り入れる室内の明るさに目が眩み、真っ白になった脳内で奇妙な歌が流れ出すような錯覚に囚われた。 (ここで気圧されていては、何の為に上野くんだりまで来たのか分からん) そもそも自分の意思で来たわけではないが、沙霧を連れ戻したいという気持ちは衛明館で放心している時から根底にあったらしい。今この場にいる事は結果として当然だと思っている辺りが、周囲に傲慢だと言わしめるのだ。 和紙の金箔の位置すらも正確に思い出せるほど、大きな衝撃となった辞表。 そう、それが全ての始まりだ。 発端はその数時間前にあるのだが、浄次の頭では自覚し得る由もなかった。 後ろから冴希に小突かれて、浄次は咳払いをしながら本題に入る。 「沙霧。俺は今朝の辞表を承諾したつもりはない」 「貴様に名を呼び捨てされる謂れはない」 金槌で殴られたような一撃が、沙霧の口から浄次の眉間に飛んできた。 以前にも姓でなく名で呼ぶ事の如何について揉めた事があったが、今日は明らかにその比ではない。衛明館にいた頃の沙霧は決して「貴様」などとは言わなかった。そして、常に敬語を用いていたはずだ。御頭だからとか男だからという問題以前に、浄次は自分の中のどこかがざっくりと切られて傷ついたのを感じた。 しかし、ここで気圧されていては以下同文。 「さぎ……た、貴嶺。何の理由あっての事か知らんが、俺は辞ひょ」 「理由なら目の前にある。そんな事にも気付かないで、一つの組織をまとめ上げた気でいる七光の腑抜けな貴様に、私が懇切丁寧に辞意を語るとでも思っているのか」 「………………」 顎を外すとはまさにこの状況だろう。 浄次は唇こそ真一文字に引き結んでいたが、頭の旋毛あたりから飛び出た魂はあらん限りに顎を外して天に昇ろうとしている。それを辛うじて本体に留めたのは、真夏の縁側で汗ひとつ掻かずに茶を飲んでいる皓司だった。 いつ戻ったのか、元の姿になっている白虎の巨頭が皓司の膝の面積をはみ出して頬だけを載せている。というよりは頬肉で膝を覆い隠している。 「今年は入隊試験がなかったそうですね。私も先代も首を捻ったものですよ」 「あそーそー、入隊試験。何で今年はやらなかったんだ、浄次?」 殿様姿勢の浄正が、自分の膝をぴしゃりと叩いて相槌を入れた。縁側と室内から退役組の油断ならない微笑を向けられ、宙に目を泳がせていた浄次はぎこちなく首を巡らせる。 「それは……補充が必要ないからです。入隊試験は実施するだけで莫大な費用がかかる。さらに新たな隊士が入れば、言わずもがなでしょう。無駄な経費を削減する為にも、今年は必要のない年だと考えたまでの事です」 浄正と皓司は顔も見合わせず、しかし微笑はそのままで同時に頷いた。 「なるほど、なるほど。確かに金は飛んでいくなー」 「ここ四年ほど、隠密衆に関しては閣老の目付けが厳しいとの事ですしね」 「うんうん。それなら資金が気になるのも仕方ないよな。道理だ」 「地獄の沙汰も金次第と言いますから、御子息が亡くなられた時は一千両ほど包んで持たせましょうか」 「さんきゅー皓ちゃん。俺が死んだらその倍でよろしく」 「貴方に金は必要ありませんよ。その口だけで十分でしょう」 休みなく合いの手を打ちつつ奇妙な微笑を注いでくる二人が、自分に何を言いたいのか露ほども分からない。本題から随分と逸れているあの世談義に意味はないと見切り、浄次はこの世でもっとも必要とする戦力を取り戻そうと、鼻で息を吐きながら沙霧に向き直った。 |
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