十四.


 冴希と以下略は浄次が落とし穴に嵌まった事も知らず、履物を脱いで屋敷に上がった。右も左も分からない屋内だが、奥の方から言い争う声が聞こえてくる。

「あっちやな」

 冴希はぺろりと唇を舐め、以下略を促して前に進もうとした。
 が───

「ぶっへ!」

 視界良好だったはずの前方を突如何かに阻まれ、足を踏み出した冴希はそれへ体当たりして跳ね返る。後ろに続いていた深慈郎が声を上げる前にドミノ倒しになり、その後ろに続いていた祇城は声を上げるまでもなく深慈郎の背をスッと躱した。
 派手な音を立てて倒れ込んだ二人を脇に、祇城は前方へと視線を向ける。

「玄武様……と、朱雀様」
「『と、朱雀様』って何だよ、失礼な扱いだな」

 冴希が体当たりした大男の横で、衣装箱を肩に担いでいる細身の男が笑った。
 四神の取締役とも言える大男・玄武と、四神の苛め役とも言える色男・朱雀。
 青龍、白虎と共に沙霧を主とする使い魔である。

「荷物が重くて空間をひとっ飛びしてきたら、運良くお前らの前に到着したってわけよ。で、沙霧を連れ戻しに来たのか? そのメンツで? ははっ、ご苦労なこった」

 起き上がって目を瞬く冴希と下で伸びている深慈郎に一瞥をくれ、朱雀はくるりと踵を返す。その背に飛び掛ろうとした冴希は、だが玄武の手によって腰帯を掴まれ、易々と持ち上げられた。手足をばたつかせて泳ぐ冴希を目線まで持ち上げ、玄武は片手に月下美人の鉢植えを抱えたまま低音を響かせる。

「沙霧は江戸には戻らない。諦めろ」
「なんでやねんっ」
「お前達が連れてきた男に聞けば分かる」

 その男が分かってないからこうして来たんじゃないか、と言い返そうとした冴希は、すとんと床に下ろされて息を吐き出した。

 四神は沙霧を主とし、沙霧の言に従い、沙霧と共にある。
 隠密衆を脱退しようがこの屋敷に居座ろうが、主が決めた事ならば四神は否を唱える事無くそれに従属するまで。どだい彼らは人間ではない。異論を持ちかけたところで考えを改める柔軟性はなく、すべては主の命一つで行動が決まる。彼らにとってはそれが所謂『仕事』だが、冴希にしてみれば昨日まで衛明館の仲間だった者が掌を返して敵に回るような言動が許せなかった。冴希とて何かあればコロリと敵に回るタイプだが、自分の事は棚上げにしてわが道を行かねばやっていけない。

 去っていく四神の二人を見送り、冴希は眉尻を吊り上げて振り返った。

「ジョージッ! 自分、ビシッと締めてかかっ……て、ジョージはどこや?」

 てっきり付いて来ていると思った浄次の姿がない。履物を突っ掛けて外を見てみるが、門の外はおろか庭にもいなかった。

「まさか逃げたんとちゃうやろな……」

 冴希がそう呟いた時、門と玄関の中間に異変が起こる。

 前触れもなく地面から巨大な蛇が打ち上がり、門の(ひさし)にぶつかって芝へ落ちた。その大きさは、町中や草むらの中で目にするような一般的な代物ではない。
 大蛇の顎に深々と突き刺さった黒半透明の刀に目を瞠り、何事かと注視する冴希と以下略の二人が次いで見たものは、首から血を噴き出して瀕死の形相を浮かべた浄次が地面から這い出てくる異様な光景だった。




(いくら何でも毒蛇ではなかろうな。いくら何でも、な……)

 血を流し続ける首を掌で押さえ、浄次は大蛇の喉元から引き抜いた愛刀を鞘に収める。しかし思い込みというのは恐ろしいもので、実際は何ともない身体が毒に侵されて熱を持ってきたように思えてしまう。

(だがこの気だるさは……まさか。いや、そんな筈はない……)

 白目を剥いて祇城に凭れかかった深慈郎を見つめ、その隣で唖然としている冴希の前まで歩み寄った。視界が歪むのは出血のせいだ。そうだ、それが原因であって、毒のせいではない。己を納得させ、安心させ、奇怪な微笑を湛えて屋敷の玄関に上がる。

「ああ、俺は分かったぞ。沙霧がここにいるんだな? そして連れ戻そうという話か」

 何を今更と言った顔で冴希は浄次を見上げたが、押さえた指の間からどくどくと流れる血の量に顔を顰めた。

「な、何しとったん……ジョージ」
「オロッチと勝負をしていた」
「……オロッチって」
「あの蛇の名だ。ふむ、呼んでみると可愛いものだな。見た目は蛇だが」

 げっそりと天を仰いだ冴希の肩に手を置き、浄次は何かが吹っ切れたような清々しい顔つきで屋敷の中へ入っていった。



 居間として使われている南側の一室へ向かい、開け放たれている襖を軽く叩く。

「父上、お邪魔し───」
「沙霧は俺のったら俺の!」
「てめぇの女は奥方だろうが!」
「あれはあれ、これはこれ!」
「ガキみたいな事抜かしてんじゃねぇ!」

 浄次の来訪など誰も気付かず、挙句に父親は沙霧の腰と言わず胸と言わず抱き締めて部屋を駆けずり回り、それを追い回す長身の男は短刀を抜いて振りかざしていた。何があったんだ、というより、懲りない人だと呆れる方が意識に先立つ。
 と、抱きかかえられている沙霧の身体がぴくりと動いた。それに気付いた浄正と樹は同時に立ち止まる。浄正の腕から無言で降りた沙霧は、乱れた前髪の隙間から覗く翡翠の双眸を半眼にして周囲を見渡した。
 眼光の届く先に動く者はいない。
 壁の掛け軸へ目を留め、視界の両端に立つ浄正と樹の胸元へ手を伸ばす。

「───餓鬼は、貴様ら二人だ」

 沙霧の腕に筋が浮き立ったかと思うと、胸倉を掴まれた男二人は物凄い勢いで前方に引き寄せられ、沙霧の正面で互いの頭蓋骨を衝突させた。

「………………ッ!」

 どちらか、はたまた双方か、声にならない呻きを漏らして共にしゃがみ込む。胸倉から手を離した沙霧は、足元で頭を抱えて蹲る二人の大男を見下ろして銀の髪を掻き上げた。


 首を覆うのも忘れ、浄次はただ茫然と一部始終を見て言葉を失う。
 廊下を駆けてきた深慈郎が浄次の背を回って自分の鉢巻を解き、蒼白の面で足踏みをした。

「おおお御頭っ! 止血、し、止血しないと大変ですっ!」

 しかし反応を示さない浄次を不安げに見上げ、そこで室内に漂う不気味な気配に気付いて口を閉ざす。おそるおそる振り返り、深慈郎はひゅっと喉を鳴らして息を呑んだ。

 男二人を足元に跪かせ──それはむしろ悶絶しているように見えたが──、部屋の中央に立つ沙霧の影がゆらりと揺れる。ゆっくりと振り返った絶世の美女の顔に表れているのは、衛明館では滅多に目にしなかった修羅の相。まさに、戦場でしか見せる事のない焔立つ殺気が、沙霧の眼光から放たれていた。


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