十三. 「若作りして外見だけで女の気を引こうってな奴に、沙霧は渡さんっ!」 「不細工がひがんだところで、美形になるわけじゃねぇだろ! 離せこのじじい!」 「お前こそ離せ! 沙霧の手首が折れる!」 「折れたらてめぇの首を圧し折ってやる!」 どういう訳かこういう訳で、樹の背に覆い被さって寝ていた沙霧を引き剥がす事に成功した浄正は、沙霧を両腕で抱えて樹の視界から遠ざけた。束の間の悦びを噛み締めていた樹は当然、沙霧奪還の為に浄正へ食ってかかる。 樹が屋敷に訪れて半刻ほど経つが、二人の言葉の応酬はまったく進展していない。 気の済むまでやらせておけばそのうち飽きる───なんて事は執念深いこの二人に限って有り得ないが、いずれにしても目が覚めた沙霧に手痛い一撃を喰らってどちらかが、もしくは双方が撃沈するのは時間の問題である。 庭で半べそを掻いている白虎を手招き、皓司は縁側に腰を下ろした。白虎は大人しくのそのそと近づき、縁の下から皓司の膝に顎だけを載せる。意識が戻ると同時に人化した白虎は、四神の中でも一番若く、人の姿になるとまだ十五、六の少年だ。 「毟られた部分が少し禿げてしまいましたね」 皓司は上目遣いに見てくる白虎の後頭部に氷嚢を当ててやり、好き勝手な方向へ散らばるその髪を指で梳く。本来の姿で浄正を妨害していた時に毟られた毛は、耳のすぐ下あたりだった。 「……目立つ?」 「よく見ないと分からない程度ですよ。白虎の毛量は多いから」 「んならいーや。それよりタンコブが痛くてさ……もっと撫でて」 元はと言えば皓司が、沙霧の安眠の為に浄正を室内に入れるなと白虎に言いつけたのだが、当の本人は何食わぬ顔で白虎を看病し、頭の悪い白虎も大元が皓司にあるとは気付いていない。縁の下にある石段に胡坐を掻き、皓司の膝枕でごろごろと喉を鳴らす白虎は「神の使い」というより家畜に成り下がっていた。 その頃、冴希率いる小隊はようやく辿り着いた上野屋敷の面積に圧倒され、青空の下に威風堂々といった体で構える門の前で口を開け広げた。 「でっ……かいお屋敷やなあ。あのオッサンは貧乏臭い風体しとんのに」 出迎えた門の大きさもさる事ながら、奥に見える屋敷の広さも半端ではない。衛明館が三つくらい余裕で入りそうな豪邸だ。門から見た屋敷の第一印象は、一角の影もなく隅まで日光が行き届く開放感。庭の燈台は視界を遮るほど大きな物を使わず、植木は綺麗に切り揃えられていて、そこに間者が潜む隙間もない。芝に無駄な雑草はなく、足を踏み込めないような無駄な場所もなく、見栄を張って庭園を造ったようには見えないのに、質素とは程遠い外観を成している。 「僕、先代のお屋敷なんて初めて入りますよ……」 「そらそうやろ。タヌキがお呼ばれしとったら、うちは毎日お声が掛かっとるわ」 鼻を鳴らしながら、冴希は背中に担いできた浄次を道端にドサリと下ろす。 「ジョージ、オウチやで。ここまで担いできてやったんやから、はよ目ぇ覚まし」 二度目はそれほど手こずることもなく、ビンタ一往復で目を開ける。 「……そのふざけた名を、呼ぶな……」 眉間に皺を寄せて睨む浄次の襟首を引き上げて立たせ、神田川で素っ裸にして着替えさせた服を改めた。浄次の胸板を叩き、冴希は満足げに頷く。 「ま、ナリはそこそこやな。頭の方は知らへんけど、汚いて言われる事もないやろ」 衛明館から浄次を引っ張ってきた際、祇城は浄次の部屋──正確には布団の枕元──にきっちり揃えてあった着物一式を袋に詰め、一緒に持ってきていたのだ。こうなる事を予測していたのか無意識の勘が働いたのか、とにかくも祇城の機転に深慈郎は感動した。 だが服装はまともになったものの、頭髪は半乾きのせいでワカメの如く、袴の裾から見える足は傷だらけで、どこぞで虐待にでも遭ってきたような風体を醸し出している。事実、虐待されたわけではあるが、冴希にそれを自覚させるのは愚問だった。 「ほな、一丁沙霧姉と話つけたるで!」 先頭を切って門を潜る冴希に、深慈郎と祇城は無言で続く。 ぼさっと立ち尽くしていた浄次は、まだはっきりしない頭をゆっくりと周囲に廻らせ、門の横に繋ぎ止められている黒い馬に目を留めた。 「東天紅……?」 ダサい名前だが驚異の俊足を持つ東天紅は、主人に似てガラの悪い荒馬で、悪評判には事欠かない。道端の草を貪り食っていた彼は鼻息を荒げて浄次を睨み、蹄で砂利を蹴って挑発的な態度を取った。 近寄れば蹴られる馬とも、距離を置けば被害なし。 歯を剥き出す東天紅を一瞥し、浄次は半乾きの髪を整えながら門を潜った。 「樹が来ているのか……。という事はまた母上が怪しい占いに嵌まっ……」 屋根を見上げながら歩いていた浄次の足場が、突然ぐにゃりと沈む。 ───しまった 脳が反応した時はすでに、浄次の体は重力の為すがまま落下していった。 「ぬおおおおおっ!」 両手を広げて落下を食い止める暇もなく、浄次は尻から底へ落ちる。尻の下で、何か柔らかいものが潰れる感触がした。 「くっ……」 狭い井戸のような湿った土を周囲に感じ、即座にこの穴が何であるのか、誰がこんな悪趣味な仕掛けを拵えたのか、浄次は嫌というほど知っている。 ───何度やれば気が済むのか 「何度引っかかれば気が済むのー? おバカちゃん」 頭上から幼い子供のような声が降ってきた。浄次は土だらけになった顔を上げ、ろくに脚も伸ばせない狭い穴の中でもがきながら苦労して立ち上がる。 「母上! またこんな下らないものを作って、何をしているんですか!」 浄次の頭上遥か上から穴の中を覗き込んで微笑む愛らしい少女───否、それは浄次の実母。童女のように切り揃えた前髪が額から浮き、彼女は身を乗り出して自分の仕掛けた落とし穴に嵌まる息子を見下ろした。 「下らないものにいつもいつもいつもいーつーも、引っかかってくれる浄次の為に今朝から作ったの。どうせ来ると思ってたし。そうそう、今日はスペシャルゲスト入りよ」 「すぺ……?」 そういえば尻で何かを潰したなと思い出した浄次は、足元を見て絶句する。 どこの山から盗んできたのか、そこにはとぐろを巻く大蛇が赤い舌をぴゅるぴゅると出し、浄次の目線まで鎌首をもたげた。包丁を研ぐ時のような音を喉から発し、土の壁に背を付けて硬直する浄次にゆっくりと顔を近づけていく。 「……な……こ、これは……」 「オロッチ、今日のゴハンはそれよ。おいしくないけど食べちゃってー」 「『オロッチ』……!?」 絶句に絶句を重ねた浄次は目玉を剥き、きゃっきゃっと罪のない笑い声を残して頭上から消えた母の足音は遠ざかり、闇に光る黄色の目をした大蛇の赤い舌先が浄次の頬を一舐めした。 蛇の表情が分かるわけではない。 だが、浄次は確かに見た。 胸まで肢体を絡み付けて締め上げてきた大蛇が、ニタリと笑う表情を。 「う……ぁ…あ…………ぐわーッ!!」 |
戻る | 進む |
目次 |