十二.


 これまた厄介なものを持ってきたものだと、冴希は無言で深慈郎の背中を見遣る。
 相方の背には、図体だけはそこそこ立派な浄次の脱け殻が被さっていた。息を切らせながらも愚痴一つ零さずに御頭を背負っている深慈郎の姿は、健気を通り越して阿呆らしくなる。深慈郎と浄次が逆ならともかく、背負う側が小さくては話にならない。

 浄次の足は江戸を発った時から砂利を擦り、土を削り、草を薙ぎ倒していた。寝間着のまま庭から攫われてきた上に、裸の足は血だらけ。それでも意識を取り戻さないのだから、浄次のショックは相当なものだろう。

「ほんま女々しいやっちゃなあ。誰がこんなん御頭に選んだんよ」

 愚痴を零す人間が違うが、冴希はハァフゥ言いながら牛の歩みで進む深慈郎を横目に見て浄次の後頭部を殴った。うんともすんとも反応のない相手は、白目を剥いたまま。

「せっ……先代、き、浄正様が…っ、決めた…そうで、すよッ!」

 荷物の重さに曲がった膝で一歩一歩を踏みしめ、深慈郎が律儀に返事をする。その荷物を選んだ当の祇城は、何故か刀を抜いて最後尾を歩いていた。すぐ前を行く深慈郎の負担を軽くしてやろうという気は、無意識にも湧いてこないらしい。

「浄正様というと、例の」

 深慈郎の速度に合わせ、ほとんど立ち止まっているような祇城が呟く。

「麻績柴様の胃を食べたという───」
「喰われてたまるかい! ドアホ!」

 祇城の物騒な発言に、冴希は八重歯を剥き出して振り返った。意中の人の話題となるとどこへでも参入するが、祇城の勘違い発言こそ捨て置けない。

「けったいなこと言わんといてや。甲斐君はなぁ、あのオッサンに腕買われたんやで」
「腕を買ったんですか? という事は、麻績柴様は義手なんですね」
「つまらんギャグかましてへんで、はよ刀しまえっちゅーねん」

 何がギャグだったのかと、祇城は首を捻る。
 日本語理解に乏しい祇城の脳内では、切断された右腕を持って甲斐に金を払う浄正の図が展開していた。右腕がなくなった甲斐は、鍛冶屋で鉄の義手を作ってもらう。それを肌色に塗って腕の付け根に装着し、着物で覆えば完成。
 さて、甲斐が刀を振るう時に機械的な音はしていただろうか。
 そんな事を無表情で真面目に考えている祇城は、やはり中国人だった。



 歩けど歩けど上野までの道のりは遠く感じる。すべては厄介な荷物(きよつぐ)に原因があるのだと悟った冴希は、行く手に見えた神田川に目を光らせ、唐突に深慈郎の背から荷物を剥ぎ取った。

「寄越し。こっからはうちが運んだるさかい」
「ええっ!? そんなわけには行きませんよ! 僕だって結構しんどいん……でぇっ」

 女の冴希では担げるわけがない、と振り返った深慈郎の目玉が飛び出る。背負い刀を祇城に預け、楽々と自分の背に浄次を担いだ冴希は、にぃっと笑ったかと思うと土手を駆け下りて草むらを突き進み、河原に向かった。
 冴希の不可解な行動に、祇城と深慈郎は立ち往生しながらそれを目で追う。

「彼女は、何をするんですか?」
「し、知らないよ……」

 浄次を背負ったままばしゃばしゃと浅瀬に入っていった冴希は、膝上まで浸かったところでこちらを振り返った。そこそこ視力の良い二人には、冴希の表情がよく見える。彼女の八重歯すらも見える笑顔の中に悪戯めいた色が浮かんでいるのを、二人ははっきりと見た。

「よう見とれー! アホの目覚まし方法、其の一や!!」

 ただでさえ地声のでかい冴希が喜色満面で叫ぶ。問い返そうと息を吸い込んだ深慈郎の肩に祇城が手を置き、何をするのか分かった、と呟いた。


 跳ね上がった水飛沫が太陽光に反射し、目映い光を冴希の周囲に散らす。
 両手を上げ、光の中で微笑む彼女は水と戯れる幼子のようで───

「おげっ……おかっ……御頭ーッ!!」

 見事に背中から落とされた浄次が、水泡を立てながら水の中に消えていった。
 深慈郎は今にも泣き出しそうな顔で土手を駆け下り、途中で足が縺れて転げ落ち、無様に着地した体を起こして河原へ走っていく。育ちのいい深慈郎にとっては、隊士達から軽視されていようと見栄っ張りな阿呆だろうと、葛西浄次という男は尊敬すべきただ一人の御頭なのだ。入隊した時から隊内での御頭の扱いは何か酷いと思っていたが、自分だけはこの人について行こうと心に刻み込んでいた。

 それなのに、それなのに───嗚呼、上様。

 パニック状態の深慈郎は呪文のように奇怪な言葉を唱えながら、高笑いをかましている冴希を押し退けて水中の浄次を探す。膝上程度の深さが幸いして、浄次の体は思ったより浅い所に沈んでいた。両脇に手を差し込んで引き上げ、上半身だけでも水面から救出する。
 白目を剥いている浄次の背中を力いっぱい叩くと、口や鼻から水が噴き出した。

「がぼっぷ……ハァ!」
「御頭! 大丈夫ですか、御頭!」

 咽込む背中を擦り、深慈郎は懐から手拭いを差し出す。我武者羅にそれを掴んで引っ手繰った浄次は、人の手拭いで思いきり鼻をかんだ。御頭崇拝者の深慈郎はもちろん、嫌だとは思いもしない。
 豪快に鼻を鳴らして涙目になっている浄次の背に手を触れ、顔を覗き込んだ。

「河原へ上がりましょう、御頭。風邪を引いてしまいます」
「河原!? というか、ここはどこだ───」

 衛明館の布団の上で意識を飛ばしていた浄次は、宏幸に窓から投げ捨てられた事も道を引き摺られてきた事も、たった今冴希に川へ落とされた事も記憶にない。周囲を見渡し、腹周りでちゃぷんと揺れる水面に視線を落として鼻水を垂らした。

「……水があるぞ」
「はあ、水というか、神田川です……」
「神田川……!?」
「あの、詳しい事は上がってから……」

 深慈郎が悪いわけではないが、罪悪感に苛まれて浄次の顔をまともに見れなくなる。とにかく河原へ、と腕を引き、意外にしっかりと立ち上がった浄次を支えて川から上がった。


「ふ……ふぬ……ふぇっくちっ」

 夏とはいえ、寝間着一枚で水浸しになった浄次はくしゃみを連発する。

「変なくしゃみをするんですね」

 河原で膝を抱えて待っていた祇城は、濡れ鼠を見上げて思った事を口にした。その横で胡坐を掻いている冴希が、弄んでいた小石を浄次めがけて投げつける。

「ようやっと目ぇ覚めたな。どや、うちの目覚まし法は効くやろ」
「石を投げつけるな、馬鹿者」

 状況はさっぱり分からないが、浄次は顔に飛んできた小石を無意識にキャッチして投げ捨てた。普段ならこの反射神経は有り得ない。

「で、お前達は神田川で何をしようというのだ」

 濡れた衣服の不快感に顔を顰め、額に張り付く黒髪を無造作に掻き上げる。浄次の中身を知らない女が見れば、発情したサルのような嬌声を上げたところだ。
 と祇城がぼんやり思いながら深慈郎を見ると、彼は嬌声こそ上げなかったがうっとりした眼差しで御頭を仰ぎ見ていた。女である冴希は浄次に興味もないらしく、反応せずに立ち上がる。祇城に預けていた刀を背中に括りつけ、心身を引き締めて浄次の前に歩み出た。

「目的地はここやない。上野や」

 そこへ行く意味ぐらい分かるだろうと、水を滴らせている長身を見上げる。浄次の為とはこれっぽちも思わないが、彼とて沙霧に戻ってきて欲しいのは事実のはずだ。まじまじと見下ろしてくる浄次が何と言うか、黙って待ち構えた。否とは言わないだろうが、沙霧を連れ戻す為にはそれなりにしゃきっとしてもらわねばならない。

 浄次の額から流れた一筋の水滴が、整った鼻筋を滑って先端から落下する。

「上野……? パンダか?」

 深刻な顔で見当違いの事を口走った浄次に、冴希は今度こそ岩のような大石を掴んでその脳天へと落とした。


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