十一. 「どこの小僧かな。俺の沙霧にチューしてんのは」 突然間近から放たれた声に、樹はやましい事をしたわけでもないのに動揺を隠し通せなかった。屈めていた身を慌てて起こし、現状を把握した樹の眉尻が俄かに吊り上げる。 「き、浄正! てめ…起きて……」 てっきり熟睡しているとばかり思っていた家主は、まったく微動だにせず目だけを開いてニヤニヤとこちらを見ていた。明らかに見てました、と言わんばかりの目つきで。 「おー名指しされちゃった。俺ってば超有名人」 妙に間延びしたやる気のなさそうな言い方が不快極まりない。そうでなくても、この顔を見るだけで不愉快になってくるのだ。横たわる沙霧を跨ぎ越し、転がっている浄正の胸倉を掴んで引き摺り起こした。 「この狸じじい!」 半ば圧し掛かられるようにして上体を起こされた浄正は、樹の鼻先で盛大な欠伸をかましながら懐を掻き始める。 「まあなー、俺こんな若々しい見た目と精神持ってるけど、あとン年で五十路の仲間入りだし。じじい呼ばわりされるのも仕方ないっていうかー。ところでお前、誰?」 またか───樹の目が如実にそう語っていた。 どうせ皓司と同じくおちょくっているだけなのだと分かっているが、それにしてもたかが髪を切っただけで何故この待遇なのだと思わずにはいられない。 掴んでいた浄正の胸倉を突き放し、沙霧との間に割り込んで腰を下ろした。 「ま、いい。てめぇがふざけた事してんじゃねぇかと思って来てみたが、この隙間を見る限りは沙霧に殴られて手も出せなかったんだろ」 「大正解。という事はお前もこの隙間を一度ならず経験しているわけだな」 ああ言えばこう返してくる浄正には、いちいち神経を逆撫でられる。 反りが合わない人間というのは誰にでもいるものだ。 が、そういう相手に限って自分と同類のタイプだとは気付いていない。 「ふん。てめぇと違ってそう何度も経験したわけじゃねぇよ」 「そーかそーか。じゃ、沙霧に触れた回数も俺より少ないんだー。お前みたいな大道芸者に負けてなくてよかった」 「大道芸者って何だバカ。同じ事を何度も繰り返してバカを再確認してるてめぇとは違うんだよ」 「知ってるか? バカって言う奴がバカなんだぞー」 「…………」 何を言っても無駄だ。 低能な罵り合いの末、樹はようやくその答えを見出した。 阿呆な相手は徹底的に無視するに限る。 「そんでそんで? どこのお兄ちゃんだか知らないけど、何しに来たんだ?」 胡坐のまま、体を横に向けて無視。 「なんか抹香臭いな。怪しい宗教でもやってんの? もしかして修行僧?」 人の服を掴んで嗅いでくる浄正を振り解き、背中を向けて無視。 「男のくせにお洒落さんだなー。こんなに首輪つけて」 後ろから首の金属を引っ張られて少々苦しいが、無視。 「実は俺の知り合いにも、お前さんみたいな匂いを付けてる奴がいるんだよ。呪術師だか奇術師だか知らんが、とにかく胡散臭くてさー、年中ずるずるした着物で、歩く度にしゅるしゅる音がすんの。髪をもっとこう長ーく伸ばしてて、きっとそこから鳩やアヒルが出てく……」 「面白いか?」 背後で声を弾ませながら、おそらく嬉々とした表情で語っているに違いない浄正の言葉を遮る。 自分の額に筋が浮き出るのがはっきりと分かった。 「髪を切ってずるずるの格好とやらをしてない俺が、そんなに面白いか?」 「おう。普通に面白い。七百を超えた仙人がある日ひょっこり現れたら若作り、だもんよ」 樹は握り締めた拳をわなわなと震わせ、こめかみの辺りがぷつりと音を立てたのを合図に180度回って浄正の胸倉に再度掴み掛かった。 「うるせぇんだよ、この万年童心アホじじ……」 「うるさい」 「い……ッが!」 隙だらけの背を、唐突に放たれた短い一言と共に細い棒のようなもので強かに打たれる。一瞬何が起こったのか判断し兼ねた樹は、そのあまりにも強烈な一撃に浄正ごと前方へ倒れ込んだ。畳に額を打ち付けてぐぅと呻く樹の腹の下で、後頭部を打った浄正がぐぁと呻く。 それはまさに、史上最大の暴風によって空を飛んできた牛の足に蹴倒されたような衝撃。意味は分からないが、畳と接吻している樹はそう思った。 ともかくも起き上がろうと腕を立て、ついでに浄正の腹をわざと膝で踏み、上体を起こす。その背にまたしても衝撃が───否、別の種類の衝撃が走った。 僅かな重みを感じた肩越しに、ふわりと花の香りが舞い降りてくる。 すっと伸びてきた細い手が襟足の髪に触れ、長さを確かめるように指を絡めて弄った。 高鳴る心音のせいで振り返る動作も儘ならない樹の顎を、背に体重を掛けて圧し掛かってくる人の手が掴む。そのままぐるりと顔だけを捻られ、背後の人と目が合った。 「男前になったな」 息すらどちらのものか分からぬほどに接近していた沙霧が、そう述べた。 深い森の奥で煌めきを放つ宝玉のような双眸が注がれる。 「沙霧……」 「…………」 その沈黙は何を表しているのか───樹のみならず浄正までもがごくりと喉を鳴らし、沙霧の唇から語られる次の言葉を待った。揺るがない沙霧の視線に絡め取られ、左右異なる色を持つ樹の目が瞬く事も忘れる。 もう一度、彼女の名前を呼ぼうとした。 「さぎ……」 「もう少し」 囁く声に乗せられて、温かい吐息が頬をくすぐる。背中から抱きつかれた事もなければ、彼女から身体に触れてくるという事もなかった。この先に男女のあれそれが待っているわけではないが、樹は沙霧の言葉を聞きたい一心で問い返す。 「何が、もう少し───?」 「寝る」 我が耳を疑った刹那、背中に沙霧の全体重が掛かってきた。 どうせ身を委ねられるなら、もっと雰囲気が欲しい……とは頭にも浮かばなかったが、何かこの体勢は間違っていると思う。 だが、寝惚けていたとはいえ沙霧だけは「誰だ」と言わなかった。 言わない代りに「男前になった」と言ってくれた。 樹が生きている時間にすれば、ほんの一瞬にも満たない瞬間。それでも些細な事に心を掻き乱され、柄にも無く嬉しさを噛み締めている自分はどうかしている。 「どうかしていますね。その構図は」 生け花を置いて戻ってきた皓司の感想に、樹は今度こそ全身を凍らせて固まった。 自分の心境よりも今の状況の方が異常だと気付く。 「皓ちゃん、聞いてくれよ。樹に圧し掛かられて俺の処女ピンチーと思ったらさあ、その後ろから沙霧が覆い被さってきて、危うく珍妙な情事が起こるところだった」 「戻って来るのが早過ぎましたか」 「ちょうどいいから皓ちゃんもどうよ? 真夏の床で四人仲良く破廉恥ごっこ」 「面白そうですが、私の隙間はありませんので結構です」 隙間なら俺と樹の間に、と己の腹を叩く浄正の上で、樹は寝ている沙霧を背負ったまま誓った。 浄正がめでたく五十を迎えた暁には、男が不能になる呪詛をくれてやろう、と。 |
戻る | 進む |
目次 |