十.


(可愛い班長が二人揃って乗り込めば楽勝……)

 手綱を握り締め、馬の腹を蹴って道を行く水無瀬 (いつき)は「可愛い」班長の言葉を反芻していた。咄嗟に思い浮かんだのは沙霧が衛明館を出て行き、班長二人が連れ戻そうと腰を上げた───そういう事だろう。

(可愛くねぇが、班長が揃ってってことは目的は隊長だしな)

 衛明館に無い沙霧の気配を察知したんじゃないのか、とは馬しか突っ込めまい。だが彼の愛馬は今日もご多分に漏れずコキ使われている最中で、主の日本人離れした長身と重量を背負っていては真剣に走るしかないのだ。
 そんな馬の心境など知った事ではない樹は、面白くない展開になったもんだと舌打ちした。




 沙霧とほんの少し距離を置いて寝転がっていた浄正は、いつの間にか眠ったらしい。陽のあたる畳で転寝している二人を見て、皓司は口端に微かな笑みを浮かべた。つと立ち上がって活けた花盆を持ち、部屋を出る。
 浄正の妻は日頃からふらふらと町へ遊びに行く癖があるので、屋敷の中に物音がしないのは不在だからだろう。家主が寝ていて妻が不在。至って静かなものだ。
 しかし今日からは昼夜休みなく賑やかになりそうだと、庭先に転がっている白虎を見て思った。沙霧が来た以上は、要らぬオプションも方々から押し寄せてくると考えていい。


 道場に置きたいと注文を受けていた花を然るべき場所へ運ぶ為、玄関へと向かう。
 履物に足を通したところで、外から馬の嘶きが聞こえた。無理矢理手綱を引っ張られて急停止を余儀なくされた哀れな鳴き声だ。
 皓司が玄関先を出ると、解放されている門戸から見慣れない風体の男が肩を怒らせて大股に歩いてきた。

「皓司。あのクソ野郎は沙霧に手ぇ出してねえだろうな」

 つかつかと歩み寄って渋面を近づけてきた彼を見上げ、皓司は自然体で来客に答える。

「どちら様でしたか」

 鼻息も荒く詰め寄っていた相手は呆気に取られて口を開閉させ、我に返ると弾かれたように胸倉を掴んできた。腕や首元を飾っている金属が鳴る。

「とぼけてる場合じゃねぇんだよ。俺はな───」
「久しくお会いしない間に、随分とこざっぱりしましたね。よくお似合いですよ」

 胡散臭い雰囲気が取り除かれて、と付け足した皓司は片手で腕をもぎ離すと、何事も無かったように襟元を整えて裏の道場へ向かった。

 誰がどんな風体で来ようと、何を引っ提げて上がり込んでこようと、ここは浄正の家。
 それにしても一人としてまともな人間の出入りがない屋敷だと改めて感じた皓司は、自分もその「まともな人間」に類されていない事を自覚しているのかどうか。本人のみぞ知る、である。




 去り行く皓司の背には目もくれず、樹は髪を掻き上げながら玄関を潜った。
 指の間を滑る髪の短さに、心なしか不自然な気がしてならない。ということは何十年、もしくは何百年も伸ばし放題にしていたのかと、今更ながら自分の無頓着さを悟る。飼い猫ならぬ飼い虎の伽羅(から)が、たまにはばっさり切ったらどうかとしつこく言ってきたので、腰の下まであった髪を束ねて根元から適当に切り落としたのが数日前。特に理由があって伸ばしていたわけでもなく、切る事には何も躊躇いはなかった。

 己が選んだ宿命ではないが、樹は不老不死の身で生き長らえてすでに齢七百を超えている。身体は十九歳の時のまま老いる事もなく、しかし頭の中は実に七百年もの歴史を刻んでいた。
 髪を切る切らないの問題など、この人生において意味など有りはしない。


「薄らバカ変態クソ浄正!」

 敷居を跨いで上がり込むなり、貧相な単語を連ねて家主を呼ぶ。しかし返事はなく、妻が出てくる気配もなし。沙霧が来ているなら四神もいるだろうに、猫の子一匹出てこなかった。
 何度も訪れた勝手知ったる屋敷、美しい木目を見せる床板を割る勢いで踏み鳴らして居間の一室に踏み込む。

「この耄碌じじい、沙霧に手…を……お、おお?」

 そこに見たものは。

 呻きながら庭でのた打ち回っている白黒まばらな髪をした少年と、傍らに膝をついて水芸をしているのか少年の頭を冷やしているのか分からない、全身がぼんやりと水色に光る青年と。マグロのように───ではなく、親子のように並んで転寝をする男と女が一人ずつ。
 予想していた事態に陥っていなかったのは幸いだが、平和な座敷と珍妙な庭の光景は樹の脳裏に理解不能の四文字を浮かばせた。
 足を忍ばせ、寝ている二人の枕元に近づく。
 覗き込んだ沙霧の寝顔は穢れを知らぬ無垢な少女のようで、僅かに開いている色艶のいい唇から静かな吐息が漏れた。手を伸ばし、頬に掛かる銀糸の一束を指先で掬い取る。ふさりと音を立てて畳に落ちた髪は、あたかも生き物のように滑らかな動きで緩い弧を描いた。



 七百年の間に二度巡り合った、運命の女。
 肉体的には手に入れられても、その高潔な魂までは何人たりとも踏み入る事のできない存在。

 一度目の出逢いは、ほんの偶然に過ぎなかった。
 二度目の出逢いは、転生した現在の姿を見て運命だと直感した。
 三度目が来る時は、その血をどこで流して息絶えるのか。

 不老不死の肉体を与える事は、呪術師を生業としている自分には造作も無い事。
 だが沙霧にそれを願う事はなく、この先もない。

 限りある命を持つ人間が永遠の生を欲するのは、怖れを知らないからだ。
 永遠という名の時間は百年や二百年で尽きるものではない。
 時が流れ、時代が移り変わり、知り合った者は瞬く間に老いて死に逝く。
 三十、五十と年月が過ぎ、ついこの前どこかで生まれた子供は気付けば土の下。
 己ただ一人が姿も変わらず、年も取らず、周りの人間が一代二代と虚しく移り行くのを見つめているだけだ。

 美しい理想で飾られた幻想世界の、真の怖ろしさ。
 身を持って知っているからこそ、沙霧にだけはそんなものを施したくない。
 だからせめて、一瞬も見逃す事無く彼女の存在に触れていたかった。
 やがて来たるべき沙霧の生の終わりに、三度目の輪廻を願う事くらいは許されるだろう。

 いつの時も変わらない艶やかな肌に触れ、伏せられた瞼の上にそっと口付けた。



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