九.


「拗ねちゃったのかい?」

 圭祐と共に襖を取り替えていた隆は、浄次の部屋から飛んできた宏幸の話を聞いて笑った。

「でも宏幸は相模に行ってたし、教える時間がなかったからねえ」
「なかったからねえ、って……」

 意気消沈した宏幸は襖に手を当てて項垂れる。
 どんなに尊敬の念を抱いても、このぼけぇっとした物腰には少々切ないものが込み上げてくる。
 沙霧が隠密衆を辞めて上野へ行ったらしいと伝えたら、上杉と青山のみならず隆までもが「明け方に貴嶺さんから聞いたよ」と返してきたのだ。
 そして三人とも、この騒ぎが起こるまで誰にも口外していない。
 秘密にしておけばバレないという話ではないのに、なぜ揃いも揃って口を閉ざしていたのか。

   1.隠密たるもの、いかなる情報も漏らしてはならない為
   2.隠密たるもの、何があろうと取り乱す事を禁ずる試練の為
   3.三人ともどこかズレているので、単に言い忘れていた為

 どう考えてもこの場合、明らかに三番目だ。それしかない。
 沙霧に別れを告げてもらえなかったばかりか、敬愛する隆にまで無自覚に傷つけられた。被害妄想も甚だしいが、今の宏幸には隆が教えてくれなかった事がショックでならない。
 込み上げてくるのは、やり場のない憤りと喪失感。


「あ。こらこら、新しくしたのにまた穴開けたら駄目じゃないか」

 襖に拳を突っ込んだ宏幸の頭を、隆の拳が軽く叩く。そんな子供騙しの叱咤にまでひどく傷ついた宏幸は、一つ怒られたら後は何回怒られても同じ事だと開き直り、襖に怒りの鉄拳を乱打し始めた。二十二歳にもなって未だ反抗期が訪れる宏幸を見て、圭祐と目が合った隆は肩を竦める。

「困ったねえ」

 さほども困った顔をしていない隆の隣で、圭祐は持っていた一枚の襖を壁に立てかけた。

「そのうち飽きてやめるでしょうし、好きにさせておきましょう。襖の代金は天引きで」

 隠密衆の経理を担当している圭祐は、花のように微笑みながら現実的な一言を付け加えた。





「うち、沙霧姉を連れ戻しに行く」

 広間の中央──正しくは机の上──で胡座を掻いて黙り込んでいた冴希が、唐突に立ち上がる。沙霧が辞めたと知って脱力していた隊士達の顔が俄かに生気を漲らせ、寝ていた者は起き上がり、座っていた者は立ち上がり、一斉に冴希に注目した。

「椋鳥、ナイスアイデア! お前の頭も少しは使えるな!」
「そんな事も思いつかへんあんたの頭はただの味噌漬けやな」

 普段より幾分、声の調子を下げた冴希は、自分も今思いついたくせに何食わぬ顔で一瞥する。
 先刻、宏幸が投げ落とした浄次の姿を広間の縁側から見ていた冴希は、考えていたのだ。
 沙霧が自分から出て行った以上、自分で戻って来るはずはない。それならば、辞職の理由を直談判で詳しく聞いてから連れ戻す口実を選べばいいだけだ、と。
 案外楽勝かもしれない───この時、冴希は完全に高を括っていた。


 背中の大刀を揺らして机から降りると、部屋の隅で放心している相方の深慈郎の前に歩み寄る。落ち込んで目を潤ませている深慈郎が顔を上げた。目の周りにクマを作ったその顔は、タヌキ以外の形容はし難い。

「タヌキ、うちらの隊長やで。うちらが連れ戻しに行かんでなんぼのもんや」

 というよりは仲間の中に沙霧を連れ戻せるような輩がいないと思ったからであるが、冴希はしごく真っ当な理由をこじつけて相方を蹴り飛ばした。

「行かへん言うたらタマ潰したる。どっちがええ?」

 冴希なら平気で遣りかねないと思った深慈郎は雷に打たれたように立ち上がり、首を千切る勢いで上下に振る。

「い、行きます、行きますよ勿論!」
「よっしゃ」

 冴希は頷いて深慈郎の胸倉を掴み、寝惚け覚ましに往復ビンタをかまして彼の手を握った。別の意味で頬を染めた深慈郎は、ふらふらと足をもつれさせながら冴希に引っ張られるままに廊下へ出ていく。
 衛明館の玄関口で足を止め、冴希は深慈郎の腰物を確認してから扉に手を掛けた。

「どんな理由か知らんけど、可愛い班長が二人揃って乗り込めば楽勝や。万が一決闘てなことになっても、二人おれば問題あらへん。ええか、肝心なんは泣き落としやない、クチや。クチ」
「甘いんだよ、ボケ娘が」

 冴希が開ける前に開け放たれた戸の向こうから男が現れ、頭上から険悪な声を落としてきた。
 何の匂いか分からないが、胡散臭い線香のような香りを漂わせている。
 その胸元にも届かない冴希と深慈郎が見えないのか無視しているのか、男は身を乗り出して胸板で二人を押し退け、中を覗き込んだ。

「沙霧が出て行ったな。中に気配がねぇし」
「気配で分かるんですか!? すごいですよね、ね、椋鳥さん!」

 妙にテンションを上げた深慈郎が頬を染めたまま振り返ったが、冴希はこれでも神職の家に生まれている。そんな事にはいちいち感動しなかった。

「何が甘いっちゅうんや、この胡散クサ男」

 見上げるは黒焦げた富士の山……ならぬ、褐色の腕を剥き出した散切り頭の男。

「そのおめでたい頭が甘いってんだ、脳足りんの馬鹿小娘」

 見下ろすはタヌキを従えた雌狸……ならぬ、額に青筋を浮かべた阿呆そうな娘。

「どこのどちらさんか知らへんけど、ここはあんたみたいな死霊の臭いを引っ提げた兄さんが出入りしよる場所ちゃうで」
「言われなくても、こんな便所にゃもう用ねぇよ」

 寸の間睨み合った二人は、揃ってくるりと背を向けた。
 男は体のあちこちから金属音を鳴らして元来た道を。
 冴希はその男を目で追うタヌキを従えて元来た道を。



「───って、戻ってどないすんねん! うちらも外に出な意味ないやん!」

 広間に向かっていた冴希の足がはたと止まり、掴んでいた深慈郎の手を乱暴に振り解いて胸倉を捩り上げた。

「どういうこっちゃ、え! タヌキ!」
「ぼ、僕のせいにされても……椋鳥さんが引っ張ったんじゃないですか……」
「分かっとったんならはよ言わんかい!」

 深慈郎の丸い頭を無遠慮に叩き倒し、冴希は一人ずかずかと大股で外に出て行く。深慈郎は転がるようにしてその後を追いかけ、幸先が不安になってきた。

 この状態で、果たして隊長を説得できるのだろうか。
 ……できるわけがない。
 もう少し頼り甲斐のある誰かが一緒に来てくれれば、説得にも可能性が見えてくるというもの。
 例えば───

 遠ざかっていく衛明館を振り返った深慈郎は、そこであんぐりと口を開けた。
 自分達の足跡をなぞるように、砂利の上に何かを引き摺った跡が形成されている。
 これは何だ……?

「一緒に行きます」
「うわっ!」

 真横からボソリと呟かれた声に、深慈郎は字の如く飛び退った。
 背中から冴希にぶつかり、文句を垂れながら振り返った冴希が拳を振り上げる。

「何すんねん、このタヌ……」

 キ、と尻窄みに声を失った冴希の目が、深慈郎の横にいる人物にゆっくりと移った。


 二人の前には、猫柳色の柔らかそうな髪をなびかせた祇城が立っていた。
 その手が何かを掴んでいる。
 冴希と深慈郎が揃って視線を落とし、次いで「あ」とも「げ」とも付かない音を喉から搾り出した。

 深慈郎の不安は風に乗り、一足先に上野へと向かっていく。
 生ぬるい風が、彼らの足元を通り過ぎていった。



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