八. 姐御が出家───もとい、家出したらしいと全館に伝えられたのは、つい今しがた。襖を腹に取り付けた隊士が転がり込んでからほんの数分後、宏幸はカッと目を見開いて半身を起こした。 「……姐御が……家出?」 「あ、起きた」 濡れた手拭いを額に置こうとした圭祐の手が止まる。宏幸は手拭いごと圭祐の手を握り締め、押し倒す勢いで詰め寄った。 「お圭……姐御が家出って本当か? 姐御がこの衛明館を出たってことか?」 「そうみたいだよ。今さっき貴嶺様の部屋の……」 「『そうみたいだよ』じゃなくて、『そんな事ないよ。気のせいよ』くらいの余裕を持って言えねぇのかお前は! ああチクショウ、何で俺を置いてったんだ姐御ーッ!」 それより熱中症は大丈夫なのかと心配しかけた圭祐は、すぐにその必要もなさそうだと判断する。宏幸は炎天下での仕事となると頻繁に干上がっているが、日陰に入れば回復は早い。元が頑丈に出来ているおかげだろう。風邪を引いても熱を出しても、三日以上長引く病とは無縁だった。 圭祐を押し退けて広間を飛び出し、宏幸はまっすぐ目的地に向かう。 慌しく廊下を横行している隊士を片っ端から蹴散らして進み、荒い鼻息と共に角を曲がった。 目的の部屋の前では、すでに血相を変えた隊士達が一様に「姐御は、姐御は!」と叫んで押しかけている。それらを掻き分けて室内に入ると、未だに布団を敷いたまま、浄次はその上に座って明後日の彼方を見ていた。 「おい、ヌケサク! 姐御が家出したってどーいう事だよ、え!?」 寝間着の襟を掴んで揺さぶると、浄次の首が力なく前後左右に揺れる。 キィ、と珍妙な奇声を上げた宏幸は、その手が白い紙を握り締めているのを見て素早く奪い取った。ろくに漢字も書けやしないが、読むだけなら読める。 胡散臭そうなものを見るように目を細め、その達筆な字面を読み上げた。 「何々、『前略 本日未明を以って隠密衆 龍華隊隊長役を辞させて頂きます 貴嶺沙霧』……」 それきり絶句した宏幸の代りに、廊下で阿鼻叫喚が巻き起こる。隊士達は怒声と私情を交えながら口々にそれを伝達していった。 「家出っていうか辞めたんじゃないかよ、貴嶺さん!」 「鳥居の野郎、あいつこそ辞めろっつんだ! 襖と一緒に捨ててこい!」 浄次の部屋から全館に行き渡った真相は、沙霧を慕っていた侍女達にまで絶叫を上げさせる。厨房に積み上げられたお膳が引っくり返り、皿が割れ、どこもかしこも収拾のつかない事態を巻き起こしていた。その張本人はご多分に漏れず、上野で惰眠を貪っている。 沙霧の置手紙を握り締めて丸めた宏幸は、尚も放心したまま動かない浄次の頭めがけてそれを投げつけた。 「てめえがそんなだから、姐御が愛想尽かして辞めちまったんじゃねーかよ!」 「そうだそうだ! 高井さん、もっと言え!」 廊下では野次が観戦に回り、毎度の事ではあるが、いざとなっても失言責任は全て宏幸に被らせようという魂胆が見え透いている。 もっとも、この御頭に対して「失言」などという言葉は何一つ存在しないと思っているのも事実。 「何とか言え、ドン亀茶坊主!」 背を蹴り腹を蹴り、転がってもまだ虚ろな目で口を半開きにしている浄次を見下ろし、宏幸はこめかみに青筋を浮かべて頬を引き攣らせた。 矢庭に浄次の腕を掴み取り、腰帯を引き寄せて頭上に掲げるように持ち上げる。 おおっと歓声が沸き起こる中、自分より長身の男を担ぎ上げた宏幸は憤怒の形相で脚を踏みしめ、一歩一歩と窓辺に近づいていった。 今朝方、浄次の手によって締められた障子の前に立つと、腕の筋肉が筋をつけて盛り上がる。 両脚を開いて踏ん張り、腰を軽く落とし、そして腕を前方へ─── 「こんの、ボケナスがーっ!」 派手な音と共に障子を突き破った浄次の体が、吹き抜けになった窓の向こうへと消えた。浄次にとっては一階部屋だったのが幸いしたが、たとえ二階でも同じ結果になっていただろう。垣根と部屋との間に落ちた浄次が目を覚ましたかどうかも確かめず、宏幸はくるりと振り返って黄色い頭を一掻きする。 「……俺の姐御」 お前だけの姐御ではない、とその場にいる誰もが思ったが、不機嫌な時の宏幸に逆らう命知らずはいない。虎卍隊が敵味方関係なく毛嫌いされているのは、班長のどちらにも悪趣味な残虐性が備わっているからだ。 浄次の布団にどっかり腰を下ろし、宏幸は膝に片肘を乗せて頬杖をつく。 (姐御が辞めちまった……) ここが砂の上なら「のの字」を書いているだろう憂鬱な心境とは裏腹に、猫と言われる所以の切れ上がった目尻を一層吊り上げ、廊下の野次を睨みつけた。 (つーか、どこに行ったんだ? 隆さんの家か……?) 敬愛する隆の家を思い出してへらっと笑いかけたが、その妻の顔を思い出して俄かに渋面を戻す。侮れない女───むしろ瓜二つの顔だから嫌になってくる。よりにもよって何であんな女が隆さんの妻なんだよ、と問題外の事を口から零した時、トントン、と壁を叩く音がした。 「御頭は?」 顔を上げると、綺麗さっぱり野次のいなくなった廊下に青山が立っている。諜報のくせに何故ここにいるのか、ちゃっかり上杉までいた。 「青山さん……聞いて下さいよ! 姐御が」 「知ってる。今頃は上野で熟睡中かな」 あっさりと返ってきた返事に、立ち上がりかけた宏幸の膝ががくりと崩れ落ちる。 「上野……?」 「先代御頭のお屋敷ってやつです。姐さん、あんたにも教えてくれなかったんで?」 「おし……どどど、どういう事っスか! 上杉さんまで!」 両手足を使って蜘蛛のように移動し、青山と上杉の足元に這いつくばる格好で服の裾を掴んだ。 二人は顔を見合わせて意味深な視線を交わし合い、青山が手を差し伸べて宏幸を引き起こす。 「明け方、貴嶺さんと会った時にそう聞いた」 「四年前から辞める話はあったわけですしな。そんな驚く事じゃありませんや」 「俺が入隊したのも四年前っスよ……。そりゃ姐御が辞めるって言ってたのはちらほら聞いてたけど、だからって何もこんな急に……」 縋りつく勢いで青山に詰め寄る宏幸の脇を、上杉がすたすたと歩いて窓の外に身を乗り出す。 「巴さん、御頭がいましたぜ。庭に」 「そんな所にいたのか。茶摘でもしてるのかな」 「寝てますが」 「じゃあ放っておこう」 浄次の回りには破れた障子が散乱しているはずだが、それを伝えない上杉も上杉で、外に放り投げたのは自分だと言わない宏幸も宏幸なら、さらりと放っておこうなどと言い出す青山も青山だった。何かが違うと突っ込む者がいない今、土で汚れた顔を天へ向けたままの浄次は、失意のどん底にいる。 |
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