七. 「皓ちゃん。こーうーちゃーん」 「何ですか」 「そっち、行きたいんだけど」 「どうぞ」 「どうぞじゃなくてさ……」 このでかいのを退かしてくれ、と浄正は縁側で呟いた。 縞目の巨大な動物が室内と縁側の間に寝そべり、跨いで入ろうとすると寝返りを打ったそれに弾き飛ばされ、伸びをしている間に脚の下へ潜って入ろうとすれば上から圧し掛かられて腹に潰されそうになる。庭に出て屋敷を回り、廊下から部屋に入ろうとしてもそこに移動している。 旧友の呪術師が飼っている虎の二倍はあるだろうこの動物、こちらも虎には虎なのだが毛は普通の虎よりも長く、模様は白地に黒縞だった。 沙霧の使い魔───否、立派な神様だが、ロクな使われ方をしていない現状は使い魔も同然の四神の一人、『白虎』である。 『主の命以外は聞くに値せぬ』がモットーの四神。 しかし神様といえども例外、気まぐれ、個性、嗜好などなど人間臭い性質はあるらしく、この白虎は主の他に皓司の命もハイハイとインコのように聞き入れるのだ。 なぜ皓司が可で自分が不可なのか。 一回りも年下の若造に劣る部分はどこにもないと思っている浄正には得心がいかなかった。 どうやって室内に入ろうかと策を巡らせる間にも、室内ではおいしいムードがこれ見よがしに繰り広げられている。 広く開いた襟から惜しげもなく深い谷間を晒し、畳にごろ寝している銀髪の美女。 その傍らに座り、花を生けているのか美女を視姦しているのか分からない皓司が一人。 美女を挟んだ向かいに、皓司と美女との距離よりもやや離れた位置に座っている四神の『青龍』人型バージョンがいたが、浄正の眼中にはなかった。 桶に満たした水の中で茎に鋏を入れながら、皓司は眠る美女を見て微笑する。 「寝顔は本当に可愛い人ですね。こうも無防備に眠られてしまうと複雑な心境です」 複雑な心境に陥るほどヤマシイことを考えていたのか、と浄正は内心呆れたが、それよりもまずは自分が室内に入らないことには始まらない。 何が始まらないのかは浄正の脳内を探らなくても分かりきった事、それを阻止する為にこうして白虎が行く手を阻んでいるのだ。 「皓司、言っとくけど沙霧に」 「貴方に下世話な心配をして頂くには及びませんよ」 「…………」 いつからこんなに生意気な方向へ曲がってしまったのか。 生まれた時から現在に至るまでの彼の成長を見てきた浄正は、できることなら時を遡って再教育してやりたいとさえ思う。 昔はこんな性格じゃなかった。 いや、昔からこんな性格だったか。 とにかく、ここは自分の家なのだから行動の自由を阻まれる謂れはないと、白虎の背によじ登ってその向こう側に行く事だけを考えた。 密集した暑苦しい毛を毟り取る勢いで掴み、首の辺りに足をかける。鼻提灯を作って寝ている白虎は立ち上がらない。 よしよし、そのまま起きるなよ、と念じて一息に背中へ乗り上がった。 その瞬間、手元でブチリと嫌な音がする。 同時に、屋敷が倒壊しそうなほどの咆哮が真下から聞こえた。 「フギャーッ!!」 「グェッフ!!」 飛び起きた白虎の背中と鴨居に挟まれ、浄正の口からも内臓が飛び出るような呻きが漏れる。 巨体を左右に揺すって振り落とそうとする白虎の背にしぶとくしがみ付き、どうどう、と馬扱いをしてみるがこれは虎だ。神様だが、猫科の動物そのものの虎なのだ。 毛を引き毟られ背中にしがみ付かれ、それでも大人しくしている虎は虎ではない。 白虎は血走った目で前足を欄干に付き、立ち上がって体を垂直にした。頭が軒先の瓦を割って屋根へ飛び出す。どうやっても離れてくれない人間に対して白虎が閃いたのは、持ち前の神力を使う事ではなく背中から庭に反り返る事だった。 俗に言うアッパーブリッジもどきで潰しに掛かる。 さすがの浄正もこの巨体に潰されて五体満足では済まないと、今頃になって危機感を知覚した。巨木のようにゆっくりと後ろへ倒れていく白虎の背中を蹴り、一足先に庭に着地して横に飛び退る。直後、地響きを伴って仰向けに倒れた白虎は、生垣の大岩に後頭部を打ち付けて失神した。 「ふー。危なかった」 「青龍殿、庭に水でも撒いて下さい」 爽やかに額の汗を拭っている浄正を見もせず、皓司は蓮の枝に切り込みを入れて割り口を広げ、竹寸筒の花器に木密(剣山の役割をした生花用の仕切り)を作る。 銀髪の眠り姫を挟んだ向かいで、青龍は青い鱗ならぬ青い髪を揺らした。 「打ち水をすれば、よろしいのでしょうか?」 名の読み方に掛けて清流の如くたおやかな髪を腰まで垂らし、白く秀麗な面からは音のない滝の如く消え入りそうな声を発した青龍には、皓司の嫌味が雀の涙ほども通じていない。 浄正に水を撒けと言ったのに打ち水をすればよろしいかとは、主に勝るとも劣らない天然だなと皓司は思った。 浄正はふふんと笑い、無造作に下駄を脱ぎ捨てて室内に入ってくる。 「甘いな、皓司。皮肉と嫌味は通じる奴に言ってこそだぞ」 「留意しておきましょう」 勝った、と心の中で拳を握り、満面の笑みを浮かべて美女の隣に寝そべった。 ゆるりと畳に広がる銀糸を一房手に取り、感触を確かめるように指を絡めて毛先まで滑らせる。僅かも引っかかる事なく、指は毛先から排出された。 それに満足して、今度は剥き出しの二の腕に触手を伸ばす。 暑さも忘れるような───というより、身体の下世話な部分の熱さを増すような誘惑の感触。 「沙霧の肌って気持ちいいよなー。万が一俺より先に死んじゃったら、髪だけと言わず皮膚もどうにかして保存しよっと」 「ご心配なさらなくとも、貴方の方が先に死にますよ」 「いや、分からないぞ」 「分かります。貴方のような好色健康な御方は突然ぽっくりと死ぬ典型ですからね」 それなら腹上死がいいと浄正は言ってのけ、美女を抱き寄せて懐に収めた。 月下美人の花の香が、銀糸のどこからともなくふわりと漂う。 鼻腔を広げて深く吸い込み、浄正は息子がそれとまったく同じ事をしているとも知らずに鼻の下を伸ばしていた。 が、夢心地の気分もそう長く続かない。 美女の腰に腕を回した途端、顎の下に強烈な一撃が食い込んできたのだ。 再び珍妙な呻きを漏らして仰け反った浄正は、チカチカする天井を見上げて大の字になった。 「……い、痛い」 「暑苦しい……」 隣でぼそりと声がし、すぐに静かな寝息が聞こえてくる。 眠っている銀髪の美女に肘鉄を食らわされ、密着していた身体を強制的に引き剥がされた浄正は、一人分のスペースを空けて隣に居る事を余儀なくされた。 「……これも寝技っていうのかね、皓ちゃん」 庭では白虎が巨体を横たわらせたまま失神し、部屋の隅では居るのか居ないのか分からない青龍が押し黙り。 花を生けている皓司と片肘を立てて寝転がっている浄正の間では、衛明館からねぐらを移してきた貴嶺沙霧その人が、これまでの騒ぎを物ともせずに昏々と爆睡しているのだった。 |
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