六. 鉢植えが落ちて割れる寸前、誰かが声を上げる。我に返った祇城は咄嗟に腕に力を入れたが、空気を抱き締めただけに過ぎなかった。 割れてしまっただろうと下を向くと、鉢植えは垂直に足の甲のあたりで止まっている。 落下したままの状態で、自分の足に載っているわけでもなく佇んでいた。 「植物は割れ物じゃないが、鉢は割れ物だ。気をつけろ」 そんな事は五歳児だって分かっているが、この物静かな低音ヴォイスで窘められると「以後気をつけます」と即座に返答したくなる。声の主は祇城の足元で巨躯を折り曲げ、いわゆる何とかingスタイルの格好で両腕を伸ばしていた。その間に鉢植えがしっかりと掴まれている。 この男がいつ現れ、いつしゃがみ込み、いつ鉢植えをキャッチしたのか。 目にも留まらぬ早業というより、鉢植えが落ちる事を見越してそこに現れたような存在だった。 ポカンと口を開けて動作を止めている隊士達の中でただ一人動いているその男は、立ち上がって鉢植えを片腕に抱える。剥き出しの褐色の腕は、祇城の腕を二本合わせても足りないほど引き締まった筋肉がついていた。焼いたら美味そうな腕がちょうど目線にあり、つまり男の頭はさらに上方に位置している事が分かる。先代・浄正でさえ彼を見上げるだろう。 隊士達は一様に同じ顔でもって、呆然と男を見上げた。 その時、またしても割り込んできた新たな声が隊士達の塞ぎかけた口を開かせる。 「のらりくらりしてんじゃねえ、亀。沙霧が起きる前にさっさと戻ろうぜ」 庭に続く衛明館の裏門が開け放たれ、煉瓦色の髪の男が片方の扉に寄りかかっていた。 普段は使われていないが、この部屋の主───龍華隊隊長である貴嶺沙霧は時々その門を開け、呪符をべたべたと貼り付けて何かしていたことがある。そのおかげか元々鬼門の方角にあるせいか、不吉な印象しか与えない扉には衛明館の誰も近づいたりはしない。 「次、呉服屋な。ここまで付き合ったんだからお前も俺に付き合えよ」 「分かっている」 鉢植えを抱えた大男はまるで周囲を見ず、行こうと言って寄りかかっている派手な男を促した。派手男は長い前髪を大雑把に後ろへ掻き上げ、部屋の周囲に群がる隊士達に目を遣る。 「お家騒動でもあったのか? 大変なこったな」 茶化すような口調で笑うとそれ以上は興味を失ったらしく、くるりと背を向けた。大男がのしのしと後を追い、庭の土に巨大な足跡を残していく。 彼らが裏門から見えなくなるまで、口を開いた者はおろか指一本動かした者はいなかった。ただ二人、丸い南蛮眼鏡を鼻に引っかけてぼさぼさの頭を掻いている上杉と、何を考えているのか空を見上げたまま朝の空気を吸っている青山を除いて。 その頃、広間にいる隊士はとっくに朝食の冷やし中華を平らげ、暑さと怠慢の為にマグロの体を為していた。毎年の風景に誰一人として疑問を持たず、隊士はすべからくマグロになるのが当然と思っている節がある。 「保くん達どうしたのかな」 再起不能になっている宏幸を引き摺り、下座の隅から縁側に移動していた圭祐は団扇を扇ぐ手を止めずに呟いた。祇城が鉢植えを抱えて現れたのは気付いていたが、その直後に宏幸が手を握り締めて呻き、苦しいのかと問うと「カエルが後光を放っている」だの「姉貴が鍬を振りかざして襲ってくる」だのと意味不明な言葉を切羽詰った表情で言うものだから、不憫に思って相手をしてやっていたのだ。 握っていた手をぱたりと下ろして眠りに就いた宏幸から目を逸らした時には、十数人ばかり隊士の姿が消えていた。相方も居残り組の中に見当たらない。 縁側から空を見上げると、突き抜けるような青空に入道雲が立ち上がっていた。 昨年の夏に東北担当オカマ諜報員の神宮梓砂が設置していった風鈴が三つ、軒下にぶら下がって涼しげな音を立てている。秋も冬も春も、一年中そこに吊るされていたのだ。 「梓砂さん、今年は来ないみたいだね」 「……カマ……ナベ……白米……」 「あ、お腹空いた? 冷やし中華持ってこようか?」 「……い、いらっしゃいませ……」 「…………」 先刻からこの調子で相手をしていた圭祐は労わるように微苦笑し、緩くまとめてある髪からうなじに零れていた後れ毛を団扇の竹尻で器用に押し込んだ。遊女が簪で髪を弄るような婀娜っぽい仕草と細い首の白さに、寝転びながら圭祐を視姦していた隊士がヤニを下げる。 と、廊下の方から雷のような足音と絶叫が聞こえてきた。 まだ朝食を食べていた冴希が顔を上げる。その手前には冷やし中華の皿が五枚、汁さえ残さずに平らげて積み上げられていた。 「朝からほんま、騒々しいやっちゃなあ。一日中バタバタしよって、暑苦しいわ」 自分の日頃の素行は綺麗さっぱり棚上げに、白けた目で廊下を一瞥して麺を箸の先に引っかける。ずぞぞぞっと豪快な音を鳴らし、大量の麺を口内に吸い上げた。 そこへ一番に到着した虎卍隊の一人が、開け放たれている襖を二枚まとめて突き破り、驚愕の様相を表して広間に踏み入る。 「だっ、大事件だぜ野郎ども! 姐御が……姐御が出家しちまった!!」 麺を飲み込もうとしていた冴希の口から水芸のように黄色い麺が飛び出た。普段なら汚ねぇとブーイングが飛ぶところだが、天地が引っくり返るほど世にも恐ろしい単語に皆それどころではない。 「な……しゅ、出家ぇ!?」 「あの超ツヤツヤキラキラ目映い銀髪を!? 剃ったのか!? 何で!?」 「おいおいおい、姐さんが坊主ってどうなんだよそれ!」 腰から襖を生やした虎卍隊の隊士は重い故なのか驚愕故なのか、汗を流して苦悶の表情を浮かべながら一歩進んでへたり込んだ。周囲に群がってきた隊士達が襖の上を踏み、凶報を運んだ隊士に禍々しい顔で詰め寄る。 「見たのか!? お前、貴嶺隊長が坊主になった姿を見たのか!?」 「待て、俺は姐御が坊主になったなんて一言も言ってない」 「出家したって言っただろ!」 「部屋の中が空っぽなんだよ! そしたらあの亀……なんつったか、姐御の下僕の一人、でっかい亀野郎が現れて鉢植え持ってって……それで、何だ、青山さんと上杉が『姐御は明け方に荷物をまとめて出て行った』とかって……」 「アホかてめえ! そりゃ家出っつんだ!」 途端にバシバシと平手が飛び交い、一同が襖の上から降りる。驚かせるなよまったく、などと口々に言い合いながら胸を撫で下ろして爽やかな笑顔を交わす隊士達の前に、深慈郎が転がり出て襖の先端にぶつかり、その上に倒れた。しかしすぐに起き上がって穴だらけになった襖の上を這い、虎卍隊の隊士へ近づく。 「あの、あの、沙霧様が家出って…それってつまり」 深慈郎の涙混じりの言葉に、哄笑がぴたりと止んだ。 「隠密衆に嫌気が差したって事でしょうか……」 「出家」と「家出」の字違いに安堵していた隊士達の顔が、笑顔のまま引き攣っていく。おそるおそる振り返る一同に止めを刺すべく、圭祐の落ち着いた声が縁側から響いた。 「貴嶺様、とうとう隠密衆を辞めちゃったんですか?」 その後、広間のみならず衛明館中に天変地異の嵐が吹き荒れる事となる。 |
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