五. 甲斐の手から虚しく箸が落ちたのを見て、保智は思わず顔を上げた。斜め向かいに座り、今の今までちびちびと冷やし中華を食べていた幼馴染の茫然とした表情に、自分まで同じような顔を作る。 「甲斐……?」 呼ばれた当人は持ち前の気取り顔を作るのも忘れ、鉢植えを両腕いっぱいに抱えている祇城の方を見つめた。祇城も、時々分からない日本語を英語や中国語に訳してくれる相手を見返し、目を瞬かせる。 保智はおそるおそるといった具合に甲斐の顔の前で手を振ってみた。眼球の反応はなく、これはおかしいぞと思った瞬間、弾かれたようにすくっと立ち上がった甲斐が大股に食卓を回っていく。 なんだなんだと隊士達が面倒臭そうに視線を注ぐ中、祇城は廊下に飛び出して行った甲斐の後を追いかけた。床が軋むほど足音を立てて廊下を行く甲斐に、擦れ違う侍女や寝起きの隊士が慌てて壁際に回避する。その背中から、普段とは違う切羽詰ったような気迫を感じた。彼が直接困る問題ではなさそうだが、何故そんなに焦っているのか。 祇城は重い鉢植えをしっかりと抱き締め、揺れる葉の間で首を傾げた。祇城の姿にも侍女達が一瞬ぎょっとして見送る廊下を、さらに後から追いかけてくる数人。それはまるで、大名行列の如き仰々しさを醸し出していた。 一行が足を止めたのは衛明館一階、最北東にある部屋。 何人たりとも滅多に足を踏み入れてはならない、否、部屋の主が認めなければ近づく事さえ儘ならない鬼門部屋がそこにある。 部屋そのものは在れど、いつもと違うのは鉄の扉が無い事だった。部屋の主が入隊してすぐに取り付けた西洋風の扉がない。 何より衝撃を受けたのは、筒抜けた部屋の中にゴミ一つ影一つ落ちていない空っぽの風景。 「───な……」 祇城が斜め上を見上げると、白皙の男は赤味を失った真っ白い顔で暗闇を凝視していた。唇を微かに開いたまま二の句を告げないでいる。 「隊長はどこに行ったんですか? 麻績柴様と相模に行ったんですか?」 尋ねても返ってくる言葉はない。 鉢植えの中の葉が、部屋の奥から吹いてきた微かな風にさわりと揺れた。 「甲斐、どうし……」 尋常でないほど慌てた様子の友人を訳も分からず追いかけてきた保智が、祇城の隣に歩み出て同じものを目にする。がらんとした空間に、その目は次第に見開かれていった。 「な……た、たか───ぁてっ!」 信じられない光景を目の当たりにして一歩前へ出た瞬間、前方から飛んできた何かが顔面を強かに打った。額に強烈な痛みが走り、堪らずしゃがみ込んで呻く。 「ヤス、痛い?」 「なに……?」 手のひらで額を押さえながら見上げれば、部屋を見つめたまま拳を横に突き出して固まっている甲斐の姿があった。 「お前な……いきなり殴ることないだろ……」 「痛い?」 「当たり前だっ」 痛いのか、と呟いた甲斐の肩から一気に何かが抜け落ちるのを、祇城は葉の間から見た。 ふらふらとした足取りで部屋に入ると、主だった女の残り香が鼻腔をくすぐる。 それも庭から吹き込む生温かい風に少しずつ攫われていった。 彼女がいた部屋。 何度、重い鉄の扉をこじ開けようと思っただろうか。一度は押し入った事があるが、屈辱な後味に終わったその日の事は故意に記憶から追い出していた。 だが今は記憶だけを頼りに、あるはずのない家具やその人を思い浮かべて室内を歩く。この辺りに天井から布が垂れ、寝室への仕切りになっていたはずだと立ち止まった。 何もない。 たった一度だけ触れた、あの身体が横たわっていたベッドはそこにはなかった。 「姐さんなら、今朝方に出て行きましたぜ」 唐突に投げかけられた声に、廊下で放心している男達は一斉に庭へと視線を走らせる。生い茂った巨木から身も軽やかに下りてきた上杉は、「よいこらせ」などと爺臭い掛け声を発して縁台に上がった。 「シバさん達が相模に向かった直後だったか、挨拶しに来てくれましてね」 「出て行った……? 挨拶? 何の話だ」 それまで記憶に浸っていたらしい甲斐が、今頃になって上杉の言葉を理解する。くるりと振り向いたその手が刀の柄に掛かり、邪魔する物のない広々とした部屋で白刃が翻った。 「って……おい、ちょっと待て甲斐!」 刃先が上杉に向けられたのを見て、額を押さえていた保智がすっ飛んでくる。 馬鹿者揃いの隠密衆とはいえ、抜刀した甲斐に近づくような命知らずはいない。ただ一人、それを命知らずだと何年経っても気付かない保智だけが行動に出た。その場にいた幾人かの隊士は、勇敢にも飛び出していった木偶の坊に心の裡で「任せた」と呟く。 甲斐と上杉の間に割り込むようにして、保智は幼馴染の顔を覗き込んだ。 「何やってるんだよ?」 「まだやってない。これからやるところだ」 「だからっ! 刀なんか抜いて何する気だって聞いてるんだ。落ち着けよ」 「落ち着いてる」 「嘘つけ。とにかく、今はそれどころじゃないだろ」 赤くなっている額のコブさえなければ冷静な判断の出来るいい男に見えただろうが、いつもどこかしら一本外している保智はそう言って直刀をもぎ取り、鞘に収めた刀を勝手に腰から引き抜いた。自分の愛刀を取られる事に敏感なはずの相手は、しかし何も言わずに黙り込む。 一方の上杉はけろりとした顔で欠伸を漏らし、廊下にいた祇城の前まで飄々と歩いていった。彼が大事そうに抱えている鉢植えの葉をするりと一撫でし、その後ろに立っていた青山に声を掛ける。 「これ、忘れてっちまったみたいですな。姐さん」 「後で四神の誰かが取りに来るんじゃないかな」 「なるほど」 二人の話を間で聞いていた祇城は、後ろを向いて同隊の青山を見上げた。 「青山様は、隊長がいなくなった事を知っていたんですか?」 「ああ、聞いてたよ。でもみんな寝てる時間だったから、朝になれば御頭から話があるんじゃないかと思って黙ってたんだ。驚かせてごめんな、祇城」 ぽん、と頭に手を載せられ、祇城は鉢植えを抱き締めて俯く。葉から香る匂いと同じ香水を身に付けていた、一番尊敬していた人に見捨てられたような気がした。 なぜ黙って出て行ってしまったのだろう。 一言だけでもいいから、自分にも声を掛けて欲しかった。 初めて日本の地を踏んだ時にも感じた思いが廻る。 なぜ捨てられてしまったのだろうと。 「祇城?」 上から静かな声が降ってきた。 隊の中で二番目に尊敬している青山の気遣うような声に顔を上げようとしたが、首が動かない。 力が抜けていく腕から、月下美人の鉢植えがずるりと滑り落ちた。 |
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