三.


 毎年入隊試験を催していた本日、朝から張り切る必要もない浄次(きよつぐ)は数分前まで惰眠を貪っていた。
 彼はごく標準的な早起き体質である。たとえ朝日が差し込まない暗室にいようとも、体内時計は地球の如き規則正しさで回っている。
 ところが今朝に限って何故か寝坊した。
 寝坊した事を後悔したのはいまだかつて数えるほどしかない。そして、数えられる後悔の中でも今日は最大級のものだった。


「……ふぬぅ」

 布団の上に胡座を掻き、一枚の紙を手に奇妙な呻きを漏らしている。
 金箔が散りばめられた高級和紙からは、かの人の香りが微かに漂っていた。
 月下美人の花から作るという、この世に二つとない香水の匂い。絹糸のような髪が揺らめくたび、ふわりとその場にいる者を包んで束の間の陶酔を与える。月下美人が人の姿になったようなかの人の、一度覚えたらけして忘れ得ぬ極上の香。

 ───などと鼻腔を広げて吸い込んでいる場合ではない。
 これは大問題である。
 浄次に限らず、隊士全員の問題である。
 隠密衆の存続危機である。
 まるで絶滅危惧に陥った珍獣の気持ちだ。浄次は真面目にそう思った。

「……何故だ」

 自問してまた唸る。
 どこかでニワトリが鳴き、一階の厨房からは美味そうな朝餉の匂いが漂ってきた。立ち上がってぴしゃりと窓の障子を閉める。寝苦しい暑さだったので開け放ったまま寝ていたのだ。

「……むぅ」

 ここまで来ると鬱陶しい事この上ないが、幸い突っ込む者はいない。
 墨で書かれた流麗な文字を一文字ずつ確かめていく。

 本題は簡潔に一行。その下に美しい字面を醸し出す名が四文字。紙の八割以上は白紙だ。
 文字は人を表すという言葉通り、半分でも埋め尽くされていたら恋文だろうかと勘違いしそうなほど美しい字だった。
 ほとんど男しか住んでいないむさ苦しい所で、浄次の枕元に恋文などが置かれていればそれはそれで大問題だが、そんな馬鹿らしい話がまったく無いとは言えないのが衛明館である。
 圭祐と保智の共同部屋に恋文が置かれていた事は数知れず。その多くは圭祐に宛てたものだったが、奇特な事に保智に宛てた恋文も存在したほどだ。
 浄次の知るところ、同性から恋文をもらった哀れな者は他にも大勢いる。なぜ知っているのかと言えば何て事はない、衛明館ではチクリ、冷やかし、弱味の公言、その他諸々を己の娯楽とする者が多すぎる所以だ。
 恨み言をしたためて相手に送るほど根暗な者はおらず、だが恋文となると腹が捩れそうな几帳面さでもって綴る。
 浄次でさえ一度は平隊士から恋文をもらった経験があるのだ。だから分かる。
 同性相手に自分の気持ちを伝える事がとれほど神経を使うものか。
 読む方も「悪戯なのか」と神経を逆撫でられる事には違いないが、手紙を寄越してきた本人と顔を合わせると赤面して俯く素振りを見せられては、怒気も殺がれるというものだ。

 しかし。
 閑話休題、これは奇襲とも呼べる一大事である、と浄次は放心したまま理解した。




「ま、待った……手が痺れてもたわ……」
「ああ、ごめん。大丈夫かい」

 早朝、今日は使われない我躯斬龍で稽古でもするかと足を向けた氷鷺隊隊長・寒河江隆は、同じ理由でぶらぶらとやってきた龍華隊一班班長の椋鳥冴希と鉢合わせた。どうせなら稽古をつけてくれと頼んだ冴希に、隆は聖人君子のような笑顔で頷いてくれる。が、聖人君子の繰り出す刀技は阿修羅の如く。冴希の自慢の大刀、佐世津國守も易々と弾かれてしまった。
 隆は誰もが認める温厚・誠実・実直と三拍子揃った稀に見る清い人間だが、一皮剥けば鬼の先代・浄正の参謀として活躍していた鬼族だという事実を認めざるを得ない男だ。とはいえ、普段から角や牙を剥き出していないだけまともである。そして一番嫌なタイプでもある。

「冴希ちゃんは右下からの攻撃が弱点だなあ。右脇に刀を突き出されたら防げないだろう」
「やっぱり分かる? 自覚はあるんやけど、咄嗟に繋ぎができへんのや」
「それで一年間無事だったのは奇跡だねえ」
「……どういう意味やねん。失礼ちゃうんか」

 直訳すれば、そんな生っちょろい腕ではとっくに右脇を刺されて死んでもおかしくないと隆は言ったわけだが、本人は率直に感想を述べただけで嫌味を言った自覚はない。「え?」と痴呆老人のように聞き返す隆の前で盛大に溜息をつき、冴希は額の汗を拭った。夏盛りはまだこれからだというのに、今日は朝から日照りが厳しい。

 隠密衆の中で最年少の冴希は、自分が女である事を忘れているような節がある。
 どうしてもすぐ風呂に入りたかったら男がいようと裸で乗り込むだろうし、その状況で隠すべきところを隠すなどという常識があるとも思えない。だが冴希が貞操観念を持ったところで、彼女を「女」として見る隊士がいないのも現実だった。
 良く言えば「同性感覚で気兼ねなく付き合える仲間」。
 悪く言えば「女としての価値もないただの大食小娘」。
 冴希としては、女の価値云々より気楽に過ごせる職場と三度の飯の方が大事なのは言わずもがなである。

 そんな豪胆娘でも、恋をする機能は備わっているらしい。
 朝から脳裏に焼きついて離れない一人の顔。今頃は相模の近くで戦闘中の、理想の男。

「甲斐くん、無事やとええな……」

 一年前の入隊試験で一目惚れした相手は、よりにもよって究極の女たらしだった。それにつけて女好みにうるさく、冴希がその範疇に入らないのは誰もが知っている。更に愚かしい事に、冴希は甲斐の女好みを理解していなかった。自分もあと数年経てば見栄えのする美女になり、職場結婚も夢じゃないとすら思い込んでいる。
 男は努力しなくても見る者によってはいい男に思えるだろうが、女は努力しなければ到底いい女にはなれないという差別的な法則に気付いていなかった。

 愛刀を鞘に収めた冴希は、剥き出しの腕に止まった蚊を叩き潰して捨てる。

「なあなあ、殿下。殿下は甲斐くんが入隊した頃から知っとるんよね?」

 聖人君子のような人柄から『殿下』というあだ名が付けられている隆は、地面に座って鉄柵に寄りかかった。我躯斬龍は頑丈な金網で四隅と天井を覆われた檻そのものだ。

「知ってるよ。今は俺が最年長だしね、みんな入隊した頃から一緒に働いてきた仲間だ」
「甲斐くんは最初から強かったん?」
「うーん、それほどでもなかったなあ」
「うちと同じくらい弱かった?」
「いやいや、今より少し劣るくらいの腕はあったよ。入隊前に経験を積んでいたからね」
「ふーん……まあ、経験はあるに越したことないわな」
「冴希ちゃんだって素質があるんだから、頑張れば追いつけるさ」
「ジョージとかタヌキには勝てる自信あるんやけどなぁ。甲斐くんはなぁ」

 冴希は人に勝手なあだ名を付け、本人が怒ろうとも泣こうとも改める気はない。それでもどれが誰を指しているか通じてしまうのは、日頃から当人に向かって大声で呼んでいるからだった。

「あー、腹減ったわ」
「そろそろ朝ご飯だねえ。戻ろうか」
「虎卍隊のメンツがいないだけ清々して食えそうやな」

 誰がいてもいなくても食べることに専念できる冴希は、隆の腕を掴んで軽々と引っ張り起こした。
 隠密衆の女は歴代二人しかいないが、どちらにも共通しているのは怪力という事である。


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