二. 江戸城内に設けられている隠密衆の本拠地、衛明館。 またの名を『犬小屋』という。 二階建てボロ屋敷でありながら随所に秘密の通路や隠し部屋があり、一階の西廊下に至っては物の怪が出るとまで噂されている。自分達が広めた噂で怯えていては話にならないのだが、彼らのほとんどは自業自得という言葉を知らない。 いや、知ってはいるのだ。 他人がやらかした自業自得を指摘して馬鹿にする事はできるが、自分がやらかした自業自得については手近な他人のせいにする。 自分の首を絞めるくらいなら人の首を絞めてやれ。 事実上、影で江戸幕府を支えている彼らは、全てにおいて使命感の薄い怠けた連中である。 「お圭さーん、麦茶もう一杯」 「あ、俺にもお願い」 俺は給仕のババアじゃない───とは、下谷圭祐は露ほども思わない。衛明館に仕える侍女が朝食の用意をしている間、自分達でやれる事はやるべきだと常に心がけている良識人なのだ。 「ちょっと待っててね、入れ替えてくるから」 通称マグロの寝床、大広間で麦茶を注いで回っているとたちまち薬缶は空になる。二つの薬缶を抱えてぱたぱたと廊下に出て行く圭祐の細腰を眺め、幾人かの隊士が鼻の下を伸ばした。 器量良し、気立て良し、愛想良し。プラス肌艶も良し。男にしておくのがもったいないほどの別嬪だ、と誰もが口を揃えて頷く隠密衆のアイドル的存在。 そんな圭祐はお約束通り自分の女顔が不満なのだが、かといって凄みのある顔になろうとしてなれるものでもない。相棒が前に言ってくれたように、自分は自分なのだから気にする必要はないのだと割り切っていた。 その相棒が突然、廊下の角からもっそりと出てくる。 「わ」 「あ」 互いに一声を上げ、衝突寸前で立ち止まった。圭祐はぴたりと静止したが、相棒は足が止まっても上半身が前につんのめって圭祐の方へ倒れこみそうになり、慌てて壁に手を突く。 「とと……。何やってるんだ、圭祐?」 「おはよう、保くん。お茶を入れ替えに行くところだよ」 「あ、そう……茶ぐらい自分達でやらせればいいのに」 みんな暑くて動きたくないみたいだから、と花のように微笑する圭祐に、同じ氷鷺隊の班長である能醍保智は内心呆れた。 暑くて動きたくないのは怠慢なだけだ。甘やかしている圭祐とて人間なのだから暑いに決まっている。それを給仕のようにコキ遣う仲間の無神経は納得いかなかった。 これは断じて贔屓から来るものではない。……はず。 しかし贔屓じゃなければ何なのだと考えても、やはり贔屓のような気がしてきた。 仮に薬缶を二つも抱えているのが幼馴染の甲斐だとしたら、たまには善行をして人の為に動くのもいいんじゃないかと思ってしまう。 たとえばこれが自分の隊長だったら、年長者として気配りの利く出来た人だなと感心するだろう。 つまり。どう考えても贔屓なのだ。 「保くん? どしたの」 「え……? いや、別に。手伝おうか」 「お茶入れてくるだけだからいいよ。ありがとう」 圭祐は保智の巨体をすり抜けて厨房の方へ歩いていった。巨体と言っても上背と筋肉がそこそこあるだけで、横幅が広いわけではない。さらに説明すると、保智は度量衡のアンバランスな男だった。身長はあるが心の容積が小さく、目方は筋肉がついている証だが腕の方は今ひとつ。 隠密衆の木偶の坊といえば他でもない、保智の事だ。 「暑い! てめぇらみたいなクソの塊がいるから俺が汗掻いて働かなきゃならねんだよ!」 「ぐあっ」 臙脂の鉢巻と白銀の刃が炎天の下に翻る。風は無く、木陰もない。一面に広がる田畑に足を浸し、泥に動きを阻まれる苦戦を強いられていた。脱色した金髪を獅子のように振り乱し、虎卍隊一班班長・高井宏幸は文句を垂れながら一人、また一人と血祭りに上げていく。 隣国相模より近々、謀反者が江戸入りを決しているとの情報を持ってきたのは、なぜか信濃担当の諜報員である上杉柘榴だった。年末にふらりと帰省し、一月いっぱいまで居座り、二月の頭に信濃へ戻ってまた舞戻ってきている。信濃は土地が広い為、越後に継いで諜報員の数は多い。大して役に立つわけでもない自分一人が抜けたところで支障はない、という何とも太平楽な考えをする隠密衆隊士の見本とも言えた。 相模に乗り込むよりは江戸と相模の中間で待ち伏せし、不意を突いて一気に始末するのが今回の作戦だ。猛暑の最中に相模くんだりまで足を伸ばすのが面倒だからという理由は、「不意打ち作戦である」の一言で綺麗に隠されている。 結果的に待ち伏せは成功したものの、木陰がないのは炎天下での戦闘が苦手な宏幸にとって不幸中の不幸だった。彼曰く、不幸の中に幸いは存在しないのだ。見通しのいい田畑を突っ切ってくる敵は馬鹿だと言いつつ、自分達も見通しのいい場所に隠れもせずぼけっと突っ立っていたのだからお互い様である。 双方の先陣が見えた瞬間、呑気な風景を醸し出している田畑は一瞬にして戦場と化した。 見るからに瀕死で弱そうな宏幸に目をつけ、取り囲んでいた数人の謀反者が片っ端から泥沼に顔を突っ込んで倒れていく。こういう時に『双瀏旋』が使えたら一気に片付けられるのに、と宏幸の口からブツクサ零れては意識朦朧の体で刀だけが別物のように動いていた。 敵は畑の案山子。 ものの半刻も経過しないうちに、目の前に現れる者すべてが案山子にしか見えてこなくなった。斜め前方から近づいてきた案山子に愛刀・各務を薙ぐと、刀で弾き返されて手が痺れる。 「危ねーな高井さん。オレだよ、オレ」 「あ? 案山子十三号か?」 「何……?」 自分の仲間も識別できない班長に、隊士は溜息をついてやれやれと首を振る。 「こっちは片付いたから戻ろうぜ。弱いのばっかりで手ごたえがなかったな」 「案山子のくせに……」 「わけ分かんねーこと言ってないで、ほら、歩けって」 脇に手を入れて支えてくれる隊士に全体重を預け、引き摺られるように田んぼの中から這い上がった。脛から下が泥水を吸って気持ち悪い。 「はあ……本日はお日柄もよく……皆様ご清勝の事と……」 「げ! おい、班長がやられた!」 班長がやられたと聞いて、通常ならば「殺られた」に変換されるのが状況として正しいのだが、誰も宏幸が殺られたなどとは思っていなかった。死体の服で刀の脂を拭う者、口笛を吹きながら死体の懐に手を入れて金を盗む者、果ては田んぼの中でカエルを投げ合っている者などが「へー」とか「ほー」とか言いながら顔を上げる。田畑を縦横する小道にぞろぞろと這い上がってきた隊士達は、まるでカエルそのものだ。 「この暑さじゃ、高井さんがバテるのも時間の問題だと思ってた」 一人がそう言い、どこからともなく何両戴きだの酒を奢れだのといった声が聞こえてくる。班長をネタに賭けをしていたのだ。 「何でこうも暑さに弱いんだろうな、高井さん。華の江戸っ子が聞いて呆れるぜ」 「他の事にはスタミナたっぷりなのにな」 「案外、病気だったりして。どっか悪いのかもしれない」 「悪いのは頭だけだろ」 「わははは、うまいっ」 ここまで班長に遠慮のない隊はどこを探しても存在しない。似たような班もある事にはあるが、大なり小なり加減されている。ところが虎卍隊に限っては、加減どころか遠慮のかけらもないのだ。強調するなら、虎卍隊の『一班』に限り、であるが。 「ヒロユキがダウン? この程度の気温で?」 汗一つ浮かべていない同隊二班班長・麻績柴甲斐が、南蛮物の直刀を鞘に収めて振り返る。 骨なしのようになった宏幸を背負って二班と合流した一班は、周囲の死体が自分達のそれよりも多く、且つどの死体も一太刀以外の無駄傷を受ける事なく始末されているのを見て、毎度ながら二班の戦力に畏怖と嫉妬を覚えた。 「いつもの熱中症だと思うんで、大丈夫です」 「カエル投げに熱中するとかかる病気カナ。それとも死体の懐に熱中してかかる金銭病か」 「うっ……いや、いえ、あの……すみません、でした」 「おや、おれは宏幸の事を言ったんだヨ。何でお前達が謝るんだろうネ」 宏幸は死体の金を無心するような性格ではない。金にはうるさいが賭博で巻き上げた金を好むのであって、死体の金は縁起が良くないと思っている。ついでに炎天下のハードワークが何よりも苦手な体質とくれば、カエル投げなんぞしている余裕はないのだ。 明らかに隊士の行動を批判した甲斐に、一班隊士はこの人にだけは隊長になって欲しくないと願う毎日だった。いないと空気が美味しく感じられる現隊長の方が、馬鹿な分だけ断然可愛げがある。 「あーえっと、ところで。普世隊長はどこ行ったんですか?」 馬鹿な分だけ可愛げのある赤毛の隊長がいない事に気付いた隊士が尋ねると、甲斐は小道のずっと向こうを指差した。小さな村落が見える。タダ飯でも食いに行ったのだろうかと訝しがる隊士達は、次の言葉を聞いて一様に「おお!」と感嘆詞を漏らした。 「畑仕事をしに来たおじいさんを抱えて、村に連れて行ったヨ」 「なんと、あの赤ザル……いや、あの普世さんが!」 「おかげで足を引っ張る奴がいなくなって、こっちはスムーズに片付いた」 「……麻績柴さんがそうするように差し向けただけなんですか」 「当たり前ダヨ。じゃなければ弥勒は今頃カエルを投げて遊んでる最中だった」 カエルの部分を強めて言った甲斐は素知らぬ顔で隊に帰還を命じ、隊長が戻るのを待つまでもなく江戸へと脚を向けた。 |
戻る | 進む |
目次 |