一. 風の便りに聞いたところ、どうやら今年の入隊試験はないらしい。 葛西浄正は自室の縁側で首を捻った。関節が怠慢を訴えてゴギリと鳴る。 (さて、珍しいこともあるもんだな……) 入隊試験は本来、毎年行わなければならない行事ではない。 遠征での殉職や病気、不慮の事故などで死ぬ者が一年の間に必然と出るわけで、空いた席を補充する為だけのものだ。いつの間にやら恒例にされているが、それは今まで募集の無い年がなかったからに過ぎない。 とは言えど、浄正の代では毎年必要がなくても入隊試験を開催していた。腕の立つ者を一人でも多く隠密に引っ張り込み、いつ誰が交代しても同じ戦力を保てるように鍛え上げる為である。腑抜けた息子が率いている今の隠密衆があるのも、ひとえに自分が選りすぐって鍛えた部下を残してやったおかげだ。 一から息子の人選のみで出来上がった隠密衆など、考えるにも恐ろしい。アヒルの集団か、さもなければガチョウの集団がせいぜいだろう。ガァガァと口だけが達者な隠密衆───恐ろしくて笑いが止まらない話だ。先百年は話題になる。 息子の顔をガチョウに置き換えて笑劇の図を作り上げていた浄正は、ふと真顔に戻って懐に腕を入れ、首を捻ったまま考え込んだ。 遠征にはそこそこ行っていたはずだが、今年の穴埋めがなかったとなると─── 「どの遠征も相手が軟弱な輩揃いで、殉職者がそれほど出なかったのでしょう」 音もなしに部屋へ入ってきた能面男が、涼しげな声に嫌味を含めて言った。 浄正が口を開こうとする間にも無感動な声は続く。 「隊士個々の実力が上がったという結果ではありますまい」 そう言ってのけた斗上皓司は、着物の裾を優雅に捌いて縁側の近くに座り、盆に載せていた茶を浄正の横に差し出した。華道の宗家に生まれ、所作の嗜みはその美貌と相まって完璧なのだが性格に問題があり、やること為すこと全てが優雅を超えて嫌味にすら見える。さらに本人も自覚しているから始末に終えない。 そんな皓司をいちいち気にする事もなく、浄正は茶を一口啜って庭に目を遣った。 瑞々しい新緑の葉をつけた樹木の枝に、スズメが何羽か留まっている。腹に変わった模様のあるスズメを見つけ、以前羽を痛めて庭に墜落していたチュン子がいるぞ、と皓司に言っても普通に無視された。 入隊試験がない理由、それ即ち殉職者が最小限で済んだ事、即ち最強……とはならない。 先代御頭である浄正とその下で紅蓮隊を率いていた皓司に言わせれば、今の隠密衆は世間から指を指されて馬鹿にされるだけのお笑い集団だ。 たとえ世間が馬鹿にしていなくとも、この二人が馬鹿にしていることは事実である。 入隊試験がない理由、それ即ち敵が大した力もなかった事、即ちロクに働いていない。 イコール、怠慢。 「隠密衆の名が廃るな。俺が率いてた頃と一緒にされちゃ迷惑だ」 「それについては同感です」 「だろ、だろ? だからさ」 「駄目です」 「まだ何も言ってないじゃん」 「奥方を連れて衛明館へ『遊びに』行こうという魂胆でしょう」 「お、よく分かったな。『遊びに』ってあたりがポイント高いぞ、皓ちゃん」 隠密衆の名が廃るから妻を連れて衛明館へ遊びに行くという、前後まったく脈絡のない、しかもどこで話が繋がるのかさっぱり分からない会話をこの二人は平然と交わしていた。 「だってさー、年末に犬小屋行った時の話したら宏幸に会いたいって聞かないんだもん。一人で行きかねないし、そんなら一度連れてってやった方が安全だろ?」 「早い話、貴方が『遊びに』行きたいだけの口実でしょう」 姿勢よく正座して茶を啜る皓司に、浄正は頭をぼりぼり掻いて上体を曲げる。投げ出していた脚の片方を縁側に載せ、半胡座の格好で相手の顔を覗き込んだ。 人形のように整った面に伏せられている目が、浄正の前でゆっくりと持ち上がる。 いつ如何なる時も揺らぐ事のない、人面獣心の如きその眼光と真っ向から対峙した。 視線が絡み合ったのもほんの数秒、浄正の眉尻がへにょりと垂れ下がる。 「……今日はいつもに増して冷たいな。俺お前に何かした?」 「ほう。という事は身に覚えがございますか」 「ない。いや、ありすぎてどれだか分からん」 皓司は鼻で溜息をつき、懐に手を忍ばせて一枚の紙を差し出した。読め、と目でモノを言ってくる皓司にへいへいと返事をしながら受け取る。 折り重ねられた半紙の端を持って頭の上に掲げ、垂れ下がってきた文面をやる気なく読んだ。 弛緩していた浄正の頬が小刻みに引き攣り出す。 「……」 「私が頭を下げに行きましたので、その件はとうに片付いております」 「…………」 「勿論、貴方が先日逢坂に残してきた代物は撤去させて頂きました」 「…………せっかく」 「せっかく? 何ですか」 「き、今日はいい天気だな、うん。こんな日和には皓司と隅田川に行って釣りでも」 「迷惑料はその文面に記されている通りお支払いして下さい。本日中に」 空になった湯呑み二つを盆に載せ、皓司はすっと立ち上がって幽霊のように部屋を出て行った。 退屈が何よりも嫌いな浄正は、半紙を畳に投げ出してごろりと横になる。 一羽のスズメが忙しない羽音を鳴らして傍に降りてきた。 「チュン子、怒られちゃったよ」 鳥に話しかける四十八歳の男に、チュン子なるスズメは小首を傾げて縁側を行ったり来たり。 「あれはウケると思ったのになー。それに名前のない道なんだからいいじゃんなー」 チュン子に話しかけているのか独り言なのかはさておき、とどのつまり浄正は不貞腐れていた。 一週間ほど前、一人旅と称して関西の女を漁りに行き、そこで起こした珍事がある。 畑の一部を切り拓いて出来たらしい小道があったのだが、通りすがら美女に出会う出会うの連続だった。中には美男もいたが、それは浄正の範疇に入らない。 あくまで女しか見ていないこの男は片っ端から声をかけ、せこい事に時間と場所をずらして約束を交わし、出会った美女全員と密会した。 帰る当日になって、浄正は前日に石屋で注文しておいた細長い石を担いで小道へ行き、入り口付近にそれを突き立てた。 石に堂々と彫られた文字は───『浄正通り』。 土地の者に許可も得ず、勝手にそのような代物を置いて帰ってきたのである。 ところが今度は皓司が所用で逢坂へ行き、そこで噂になっていた『浄正通り』───読み方は「じょうせい」だったが───が何なのか小耳に挟んだ所、不審と確信の両方を抱いた。 元隠密衆のやり手であった皓司に抜かりはない。 石屋を回って人相を尋ねると、三件目の店でビンゴだった。確かにそのような男が注文していったと言うのだ。 皓司が正確に伝えた人相は、上野の屋敷で日がな一日ぐうたらしている男以外の誰でもない。 憤慨していた土地の所有者に事情を話し、不本意ながら頭を下げ、ついでに自ら標石を取っ払って帰ってきたのが今朝というわけである。 当然、地主に伝えた皓司の身分は華道宗家の跡継ぎ、石を立てた張本人の身分はただの武士。隠密衆の名は一言も口に出さなかった。 「ま、小判四枚くらいでケチる事もないけどな。つまんねーの」 ぶつくさ言っている浄正の傍らには、チュン子なるスズメはもういなかった。 よっこらせ、と年相応の掛け声を付けて上体を起こす。着流しの袷がだらしなく開いたが、そこから覗く胸板は隆々とした筋肉の盛り上がりを見せ、浅黒い肌に衰えの色は微塵もない。屋敷に隣接した小さな道場で毎朝鍛えている証拠だった。 「筋肉馬鹿」に留まらないのは、衛明館にいる木偶の坊との違いであると浄正は自負している。 縁側から足を引っ込めて立ち上がると、欄干に手をついて体を曲げた。そのまま軽く柔軟体操をして、逃げるなら今のうちだと廊下に出る。 だが、二歩も進まないうちに足を止めざるを得なかった。 いつからそこにいたのか、浄正の進路を塞いでにっこりと微笑む妻が立ちはだかっている。 「どこへ行くんですの、浄正?」 さては皓司とグルだな、と勘付いた頃には時すでに遅し。 妻の手には一振りの立派な太刀が、鞘もなく握られていた。 |
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