在りし日の子供
四、
「何度言ったらその癖やめんの?上からやってもダメだってば」
「お前だって攻める時は上からするじゃないか……何が駄目なんだよ」
夕暮れの野原で、刀の触れ合う音が響いていた。
「あのね。おれが上から斬りかかったら、ヤスはまず真上に刀をかざして防ぐ。それを見越してわざと上から構える。それですぐに刀を横にして相手の脇腹を狙うんだヨ。ヤスは上から振りかざしたら最後までまっすぐ下ろしてるじゃん」
「さっき横にしたけど、お前防いだじゃないか。上と横を読まれて、他に何ができるんだよ」
「だからそういう時の臨機応変を身につける為に稽古してるわけデショ」
剣道の帰りに甲斐と野原で待ち合わせをして、刀の稽古をするのが日課だった。
甲斐は剣道をやらず、二年前から実姉の知人に真剣を習っている。昔見せてもらった南蛮物の直刀で。
あれから四年、甲斐の背は五尺と二寸を超えた。
保智は六尺にもなったが剣道は相変わらず人並みで、真剣ともなるとまったく甲斐に歯が立たない。三、四年前までは両手で刀を持つのが精一杯だったくせに、と内心で嫉妬した。
男子たるもの四年も経てばその成長は著しい。背丈がすべてではなく、力や運動神経が秀でてくる。図体ばかりの保智に比べて、甲斐は華奢ながら敏捷性としなやかな動作を身につけていた。たった一歳の差でこれほど能力が違うものかと疑うばかりだ。
甲斐から一本も取れずに息を切らし、保智は草に尻餅をついて刀を投げ出した。
「ちょ、ちょっと休ませてくれ……」
降参の合図に手のひらを向けると、脚の間に甲斐の刀がドスッと突き刺さる。
「ヤスは長期戦に向いてないネ。あ、長期戦に持ち込む前に殺られてるか」
「……刀で食ってこうとは思ってないし、別にいい」
「でも刀は必要だヨ。ほら、昔おれが人攫いに遭った時とかさ」
「もう人攫いになんか遭わないだろ」
「今でも一人で歩いてると声かけられるケド。そんな腕じゃ助けてもらえそうにないな」
「お前の腕で十分助かるじゃないかよ……」
身長が伸びて姉の着物を着せられなくなってから、甲斐が人攫いに遭う事はほとんどなかった。もっとも、二年前からその腰に南蛮の刀がぶら下がっているせいでもある。
さすがに人を斬った事はないらしいが、祭りの最中に中年の男から軽い悪戯を受け、もの凄い形相で抜刀したのには驚かされた。本当に斬りかかりそうな勢いだったのだ。ぴたりと相手の顎に刃先を突きつけ、甲斐の兄が止めなければそのまま顎を貫いていたかもしれない。
そういう事件があってか、同年代の子供達の間で甲斐は嫌われていた。
「なあ甲斐、刀なんかまだ早いんじゃないのか? 剣道やれよ」
「普段身につけない防具を着て竹刀振り回して、そんな護身術は何の役にも立たないヨ」
「護身術っていうか、力つけたいから習ってるだけだけど……」
「同じ剣術ならおれは刀を取る。刀がまだ早いのはヤスの方だネ」
体があまり成長しない分、口ばかりが成長している。麻績柴家の女達が口達者なように、甲斐もしっかりとその遺伝を受け継いでいた。
二人で草の上に寝そべり、暗くなっていく空を見上げる。
会話がなくなったので甲斐が寝たのかと思ったが、横を向くと目は開いていた。
「おれ、夏になったら家を出る」
唐突に呟いた甲斐に、保智は目を瞬かせて言葉を失う。
「……出るって、いきなり何だよ。どっかに居候でもするのか……?」
「肥前から出るってことだヨ。ここにいたって何もすることないし、つまらないんだ。貿易の手伝いは面白いけど、隼人兄さんが継ぐからおれには何もない」
何もない、と語った声は寂しそうな音がした。
どう答えていいか分からず、保智は気まずくなって体を起こす。
甲斐は頭の下に両腕を入れたまま、足で軽く蹴ってきた。
「まだ誰にも言わないでネ。ちゃんと決めたら自分で伝えるから」
「……分かった。でもその時が来たら行き先くらいは教えてくれよ」
「未定だけど江戸の方に行こうカナ。一人でいろんな国を回ってみたい」
いつだったか、甲斐が将来について尋ねてきた事がある。
国を渡り歩くのがやりたい事だったのだろうか。
それとも、あの時から希望が変わったのかもしれない。
しかし十四歳で一人旅をするというのは難しいんじゃないかと思う。
どうやって関所をくぐり、江戸までの旅費を稼ぐのだろう。
保智は育った土地から出ようなどと考えた事もなく、そんな度胸も自分にはなさそうだった。
「そろそろ帰るけど、ヤスは?」
「うん……いや、俺はもうちょっとここにいる」
「寝てたら人攫いに遭うかもネ。おやすみ」
物思いに耽っていると、辺りはとうに真っ暗になっていた。
広い野原に一人でいるのは恐くないが、物の怪の類が出てきたらどうしよう、と次第に焦り始める。
その時、近くでぽうっと灯りが浮かんだ。
「うわっ!!」
人魂だと思い込んで慌てて後退ると、灯りのそばから落ち着いた声がする。
「保智ですか?」
「は……隼人、さん……?」
灯りが近づき、提灯を掲げた甲斐の兄の姿が闇に浮かんだ。白い顔なので殊更幽霊のように見える。
「甲斐が帰ってこないので、君と一緒にいると思ったんですがねぇ。一人ですか」
おっとりしている甲斐の兄は、保智の周辺を見渡して弟がいない事を確かめていた。
保智は急に体から血の気が引いて隼人の袖を引っ張る。
「戻ってないってどういう事ですか!? だいぶ前に帰ったのに!」
「おや、じゃあどこかで道に迷っているのかな」
「そんなわけないでしょう! 人攫いに遭ったのかもしれない……早く探さないと!」
甲斐の腕が立つ事も忘れて、保智は必死に隼人を押しながら町へ戻る。
だが、保智の目は背の伸びた甲斐ではなく小さな子供を探していた。
どれくらい駆け回ったのか、草履の鼻緒が切れて走れなくなり、元の場所に戻ってくる。
隼人の情報を待とうとすると、甲斐の兄は最初からそこに立って提灯をぶら下げていた。
「な、なんで探してないんですか!」
「一日待って帰ってこなければ届けを出そうと思いまして。保智が一人で走っていってしまうものだから、ここで待っていたんです」
「呑気なこと言ってる場合じゃないですよっ! 甲斐に何かあったらどうするんですか!」
「さあて……。でも甲斐は刀を使えるから心配には及びませんよ」
刀を使えると聞いて、保智は甲斐がもう小さな子供の格好ではない事を思い出した。
同時に、野原で語っていた言葉が脳裏に浮かぶ。
「……江戸」
「江戸?」
「隼人さん、甲斐の部屋から服とか無くなってませんでしたか!?」
「今オランダから帰ってきたばかりなので、そこまでは」
「甲斐の奴、家を出て一人で江戸まで旅するってさっき言ってたんです」
「へえ、あの甲斐が一人旅をねぇ。今日出発したんでしょうか」
「したんでしょうか、って……いや、いきなり何も言わずに出てくなんて有り得ない……。それに、夏になったら行くって言ってたんですよ。きっと人攫いに捕まったんだ!」
保智が食ってかかると、隼人は首をかしげて何かに思い当たるような顔をする。
ややあって突然ふふっと笑い、懐に片手を入れて歩き出した。
「おやおや、保智は言葉に騙されてしまったようですね」
「え……?」
隼人はゆっくりと提灯を港の方へ掲げて船場を照らす。
「今夜は───もう夏ですよ」
船場には祭り提灯が連なり、浴衣を着た人々の頭上に大きな花火が打ち上がった。
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