在りし日の子供


三、

 保智の家といっても甲斐の家からは目と鼻の先にある。
 緩やかな坂道を登っていくと焼き魚の匂いがしてきた。
 戸口を開けて甲斐を床に下ろし、草履を脱いで台所の暖簾をめくる。

「母さん、甲斐がうちでご飯食べたいって」

 足元から顔を出した甲斐を指差すと、母は夕餉の支度を止めて顔を上げた。

「あんたその顔どしたの。汐流と喧嘩?」

 着物の袖をたくし上げている格好は、まるで下働きの飯盛り女のようだ。保智の頬に浮かび始めた紫色の痣を包丁の先で示し、脅迫まがいに聞いてくる。

「これはただ……」
「ヤスね、唐人と喧嘩して勝ったんだよ」
「てことは、甲斐ってばまた人攫いに遭ったのね」
「……だって」

 甲斐は保智の腰に隠れるようにすがり付き、口をへの字に曲げて泣きそうな顔をした。保智の母は包丁を振りかざして息子を頭から怒鳴りつける。

「保智っ! あんた一緒にいたんでしょ。なに毎度毎度毎度バカやってんだよ!」
「なんで俺のせいなんだよ!」
「お前のせいじゃなかったら誰のせいだっつの、え!? 言えるもんなら言ってごらん!」
「攫おうとする大人が悪いんじゃないかよ!」
「お前がしっかりしてりゃいいだけの話でしょうが! 図体ばかりでかくなりやがって、頭と腕も一緒に成長しな!」

 近所に聞こえるほどの大音量で親子が怒鳴り合うと、甲斐もつられて泣き始める。がつんと保智の頭に拳骨が落ちた時、暖簾を押し上げて海坊主のような強面の男が現れた。

「飯はまだか、あやちゃん」

 短い髪一本すら剃り残しのない見事な頭に対し、顎には濃い髭が生い茂っている。
 保智の父だった。

「お、孝太郎の末っ子。また保智が泣かしたのか?」
「俺じゃないってば!」

 父の太い手で首根っこを掴まれ、保智は引き剥がそうと抵抗する。二人の前で、保智の母が包丁で茶碗を示して夫に言った。

「千春ちゃん、手が空いてるんならご飯よそって運んで」
「よしきた」

 のっそりと暖簾を潜って出てきた父は背が高く、太っていないのに体が大きい。手のひらに埋もれる茶碗へせっせと白米を山盛りにしていき、息子と甲斐を居間へ促した。




「ほお、保智が唐人と喧嘩。よく生きてるもんだな」

 八人分はありそうな夕飯を終えてから、保智の父は酒を啜って肩を揺らした。

「まぐれでしょうよ。角材で自分の頭をカチ割らなかったのは褒めてやるけど」

 両親がそんな話をするので、保智はそろそろまじめに剣道でも習おうかと悩む。
 六歳の頃に一度道場へ入門したが、見掛け倒しで腕の方はからっきしだったのだ。素質がないと言われて剣道を諦めたものの、何も武術の心得がないというのは虚しい気がする。
 甲斐にまた何かあった時──できればこれ以上何もあって欲しくないのが本心だが──自分しか頼るものがない。
 甲斐は七歳で姉に刀を持てと勧められたが、体が小さくて刀の重さに耐えられなかった。保智と同じくらいよく食べるのに、なかなか骨と肉にならないらしい。物置に南蛮物の真剣があったといって見せてもらったが、甲斐はそれを運んでくることさえままならなかったものだ。
 だが、甲斐には剣の素質があるんじゃないかと保智は思う。
 頭はいい。ビードロでも花札でも、一回やらせれば簡単にこなしてしまうのだ。
 天性とも思える才能の使い道が分かっていないだけで、もう少し成長したら自分よりも大きくなるんじゃないかと密かに懸念していた。

「あのさ、俺また剣道やろうかと思うんだけど」

 保智が父親に向かってそう言うと、隣に寄り添ってまだ食べている甲斐が顔を上げた。

「ヤス、剣道へたっぴじゃなかったっけ」
「だからまたやりたいんだよっ。今日みたいに大人と喧嘩しても、力があった方がいいし」

 父は鼻を鳴らしてふーんと答え、二匹目の魚を突付いている甲斐を見る。

「孝太郎の末っ子はそのうち保智より強くなりそうだな。うん、きっと強くなる。だから先手を打とうってわけか」
「別にそういうわけじゃ……。とにかく剣道やらせてくれよ」
「あやちゃん、どうだい。保智がまた剣道やりたいそうだよ」
「素質がないって師範に正面から言われたくせに、懲りてないのね」
「同じこと言われて帰ってくるのを見込んでやらせてみるか」
「次に言われたら三度目はないと思いなさいよ。保智」

 しっかり釘を刺されて許可をもらうと、保智はなぜか安堵して甲斐の頭に目をやった。


 小さくて泣き虫で我が儘で、ちょっと目を離すと人攫いに遭ってばかりの甲斐。
 いつかこいつに追い越される前に。
 そして、それまでは自分が守ってやれるように。
 将来の事は何も考えていなかったが、目先の目標はひとつ決まった。



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