在りし日の子供
ニ、
ほどけた帯を背中で適当に結んでやると、甲斐は嬉しそうにおとなしくしていた。
まったくの良い子ではなかったが、年が近い保智にはべったりとくっ付いている。
一方の保智は、一つしか違わない友達が世間には五つも六つも違う風に見られるので、それにつられて本当に五つくらい下だと勘違いしている節があった。甲斐が子供すぎるというより、自分が年上なのだから言う事を聞いてやらなければならない、という間違った観念である。
「ヤス、カステラ食べる?」
南蛮菓子を作っている松翁軒の前で、甲斐はのれんを指差して言った。保智がうんざりした顔で首を横に振ると、笑って次の店へ歩き出す。カステラの匂いだけでも溜息が出るほど飽きているのだ。
鼻を摘まんで店の横を通り過ぎた時、また保智はぎょっとして走り出した。
先の方で甲斐が見知らぬ男に話しかけられている。
「甲斐、こっちに来い!」
と言いつつ自分から走っていって追いつき、甲斐を背中に庇いながら男を見上げた。
「こいつに何か用ですか」
「え? いや別に……。はは、可愛い妹だね」
兄弟でも女の子でもないと言おうとしたが、男がそそくさと雑踏に紛れていったので何となく不満が残る。それよりも、と下を見下ろすと、甲斐は上目遣いに腰へ張り付いてきた。
「全然知らない人なのに、なんで僕に声かけるんだろね」
「なんでって、可愛いからだろ……」
「ヤスは僕のこと可愛いと思う? 知らない友達だったら声かけたくなんの?」
「なるわけないだろっ! そりゃお前は可愛い顔してるけど、声かけたりするのは変態がやることなんだよ!」
「ヤスのおこりんぼ」
「あのな……」
保智は呆れて渋面を作り、ぴたりとくっついて離れない相手の対応に迷う。
口では強がって見せるが、甲斐の内心は怖くて泣き出す寸前なのだと知っていた。
案の定小さな手で目を擦り、保智の袖を掴んで顔を押し付ける。
「俺の袖で顔拭くなよな」
「ヤスがいなくなっちゃうから怖い目に遭うんだ」
「お前がさっさと先に行くのが悪いんだろ!」
人攫いに遭わず、勝手に先へ行かないようにするにはどうしたらいいものか。
手をつないで歩くのは何か違うような気がする。そもそも歩調が違うので厳しい条件だ。
考えた結果、保智は無言で甲斐を抱き上げ、腕に抱えて歩く事にした。手をつないで歩く事よりも何か違うが、短絡な頭を絞って考えた結果には頓着していない。
「これならどっちもいなくならないだろ」
「ヤスに抱っこしてもらったの初めてだね」
「……やけに嬉しそうだな」
五尺六寸の保智と四尺二寸の甲斐では、身長差が極端に広がりすぎている。保智の目の高さで見える視界に、甲斐はご満悦だった。
「ビードロ買いに行こうよ。ビードロ」
「こないだ買ったじゃないか」
「割っちゃったんだよ。由華ちゃんが壊した」
「……俺達の姉貴って、しょっちゅう人のもの壊したり隠したりするよな」
「ヤなお姉ちゃん達だよね。隼人兄さんはそんなことしないのにさ」
「隼人さんは大人だからだろ。今年何歳だっけ」
「二十一。早く大人になりたいな。ヤスは大人になったら何したい?」
甲斐に聞かれるまで、将来の事について考えたこともなかった。
訪れもしない先の出来事など考えてもどうにかなるわけではない。
歩きながら悶々と考えてみたが、これといった希望職は思いつかなかった。
「分からない。お前は何かしたいことあるのか?」
逆に問い返すと、甲斐は耳に顔を近づけてそのままふふっと笑う。
「なんだよ」
「教えなーい」
「人に聞いておいて、ずるいんじゃないのかそれ……」
「ヤスだって答えなかったじゃん」
ビードロが並ぶ露店の前で足を止め、保智と甲斐は同時に懐から財布を取り出した。店の親父が布でビードロを一つ一つ丁寧に拭いている。薄いガラス細工は、少し力を入れただけで簡単に割れてしまうのだ。
「なあ、教えてくれよ。俺は思いつかないから答えられなかっただけだ」
甲斐が将来やりたい事とは何なのか知りたくて、ビードロを選ぶ気になれない。
「じゃあね、ビードロを鳴らせたら教えてあげる」
意地の悪い条件に、保智の眉間が更に皺を刻んだ。
ビードロが吹けないのだ。ちょっとしたコツで吹けるらしいが、息の使い方が下手で音が鳴らない。
「買ってやるからそれで……」
「自分で買う。おじさん、ビードロ二つちょうだい」
保智の腕に抱えられたまま、甲斐は銭袋から金を掴み出してビードロと交換する。店の親父は保智と甲斐を親しげに眺め、しかめっ面の保智に愛想のいい笑顔を向けた。
「若いお父さんだねえ」
「…………」
保智の顔が瞬時に硬直し、口元が引き攣る。顔の横でビードロがぺこん、と鳴った。
「おっ、うまいじゃないかお嬢ちゃん」
「僕男の子だけど」
「こりゃ失礼。可愛い着物着てるから女の子だと思ったよ。お父さんの趣味かい?」
「…………」
五つ六つの年齢差に間違えられるのはともかく、親子に見られたのは衝撃を越えて屈辱だった。我知らず半開きの口で呆然としていると、甲斐がそこへビードロの先を突っ込む。
「吹けたらさっきの教えてあげるよ」
それどころではない保智は、腕から甲斐を落としそうになって我に返った。
「あの……俺父親じゃないんですが……」
「あれ、違ったのか。そういやあんまり顔似てないもんなあ。甥っ子なのかい?」
「一歳しか違わない友達です……」
「……そりゃ、とんだ失礼で」
日が暮れてきた町を、保智は相変わらず甲斐を抱えて歩き出す。
「ヤス老けてるんだね。お父さんだって」
「お前に言われたくない……」
友達を抱えているのは尋常ならぬ理由があっての事だが、それが自分の早熟した顔つきと一緒に災いして親子のように見られたのだ。
十一で子持ちに見られるほど老けているのか、十歳でまだ七歳くらいの外見をしている甲斐が幼いのか、保智には測りかねる問題だった。
さして気にしていない甲斐は、頭の横でビードロをぺこん、ぺこん、と鳴らしている。
夫婦らしき男女が擦れ違い様に「可愛い親子ね」と囁き合っているのが聞こえた。
甲斐を下ろせない上にそういう目で見られるのは、謂れのない罪を囁かれているのと似たようなものだ。常識人の保智はだんだん下を向いて歩く羽目になる。
甲斐がビードロを吹けと言うので口に咥えてみたが、スースーと息の音がするだけだった。
「ぶきっちょ」
「どうせ俺は不器用で老けてるよ」
「老けてるなんて今言わなかったのに。ボケツっていうんだよ、そーいうの」
「うるさいなっ」
「今日ヤスんちでご飯食べたいな。ヤスんちに行こう。回れ右」
「……うちは左だ」
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