在りし日の子供
「甲斐ったら、また人攫いに遭ったんですのね。これで何度目かしら」 囲炉裏の火がぱちぱちと弾ける中、おっとりした少女の声が妙に間延びして響く。 「唐人はともかくさぁ、先週なんか女衒に見初められたって話じゃん?保智が見つけなかったらどーなってたと思う、あれ」 もう一人の少女は、張りのある太い声を遠慮もなく発して金平糖を貪った。 「丸山の遊郭で脱がされて男の子だと分かったら、陰間にされたんじゃありませんの。こんな未熟児でも男好きのする顔立ちですもの。将来稼いで頂けたかもしれないと考えると、本当に惜しいですわ」 「やっぱそう思うよねえ?いい職業にありつけるとこだったのに。保智、聞いてんのかアンタ」 二人から離れたところで顔に薬草を塗られていた保智は、眉間に皺を寄せて答える。 「姉さんも由華さんも、甲斐が怖がってるのにどうしてそういう話ばっかりするんだよ……」 しがみ付いている甲斐の背を不器用にあやすと、またぐずぐずと泣き出して肩に顔を埋めてきた。黄色い帯がほどけてべろんと垂れ下がっている。 唐人に手を引かれていた甲斐を呼び止めると、男は甲斐を抱えて逃げ出したのだ。 雑踏に揉まれて四苦八苦しながらも追いかけ、あと少しで甲斐に手が届くと思った瞬間、唐人は短刀を抜いて斬りかかってきた。丸腰の保智は手近にあった材木で応戦したが、男が甲斐を片手に抱えていたので防ぐ事しかできない。まともに剣道もやっていない腕では、滅茶苦茶に振り回すので精一杯だった。 材木が男の手首に当たり、短刀を取り落としたのは運が良かっただけ。 地に落ちた短刀を蹴ったあとは何がどうなったのかよく覚えていなかった。やっとの事で甲斐の腰帯を掴み、強引に奪い返した時には、鼻血を垂らしていたのにも気付かなかったくらいだ。 わんわん泣いて飛びつく甲斐に怪我がなかったか確かめると、途端に体のあちこちが痛み出した。鼻血を啜りながら麻績柴家にたどり着き、甲斐が誘拐されそうになったと伝えて現在に至っている。 「甲斐のせいで男前のお顔が台無しになっちゃったわねぇ、保智ちゃん」 薬草を塗り終えた甲斐の母が、保智の額の髪を撫でながら覗き込んできた。 「あのねぇ、おばさん思うんだけど、他人より自分を大事にしないと駄目よ。危ない事は避けましょうね」 「……自分の息子が誘拐されてもほっとけって言うんですか」 「まあ、ほほほほ。自分の子供なんていくらでも作れば済みますけれどね、保智ちゃんは私にとって一人しかいないのよ。甲斐を助けたばかりに命を落としたら、おばさん悲しいわ」 毎度の事だとは思っていたが、麻績柴家の女たちの考えていることが分からない。 自分の姉はただ横柄で粗野なだけだが、丁寧に回りくどい喋り方をする甲斐の姉と母親については未知なる存在だった。 甲斐の家は長崎で貿易商売を営み、父親と兄が毎日出稼ぎに出ている。 保智の家は両親と姉が一人、何をするでもなく普通の武家だ。 一つ年下の甲斐と知り合ったのは生まれる前からで、親同士が仲良くなったのが始まりだった。南蛮の輸入品で幕府に売れない物でも、甲斐の父は何かと面白いものを買い付けて見せてくれる。肥前の国はオランダや中国との貿易が盛んな土地だ。 江戸から来る人間が珍しがる砂糖菓子やカステラも肥前では見慣れた菓子になっている。十一歳の保智はカステラに飽き、十歳の甲斐は金平糖が好物で、そして今日もまたおやつはカステラと金平糖だった。 「いつまで泣いているんですの、甲斐。金平糖食べちゃいますわよ」 由華が金平糖の一粒を甲斐に見えるようにかざすと、甲斐は保智の襟を握り締めて姉を睨み、ふいっと顔を逸らす。 「……ヤスが今日買ってくれたからいいもん」 「その保智さんが買ってきた金平糖を頂いてますの。あら、汐流さんが袋ごと食べようとしてますわ」 「さっさと食べない奴が悪いんだよ。食い物は早いもん勝ちだろ」 保智の姉・汐流は袋を口元に当て、逆さにして一気に残りを食べてしまった。粗末をしようと勝手知ったる麻績柴家で咎められる事はないのだが、弟の方は恥ずかしくて黙っていられない。 「姉さん、人んちでやめろってば……いて! おい甲斐、髪引っ張って泣くなよっ!」 好物を取られて泣き出した甲斐に髪を引っ張られ、保智は何度目かの途方に暮れた。 菓子の取り合い、物の取り合いは子供たちの日常茶飯事である。 甲斐の母は笑ってやり過ごし、茶棚の中にもう一袋の金平糖があるのに出しはしなかった。 「甲斐、今日はどんな人に連れて行かれたのかしら。お母さんに教えてくれる?」 怖い目に遭って帰ってきた息子に当然のように聞き、しかしそれは別に男の人相を聞いて役人に届けを出そうという気遣いではない。 大人の心理を知らない甲斐は、毎回素直に答えて後で苛められるのだ。 「もやしみたいな顔した男の人だったよ。金平糖あげるから一緒に行こうって……」 「ちゃんとついて行ったら、たくさんもらえたかもしれないわねぇ」 「何言ってるんですかおばさん!」 甲斐が本気で考え始めたのを見て、保智は軋む体を捩じりながら抗議する。 だが、追い討ちをかけるように由華と汐流が息の合った横槍を入れてきた。 「そーだよ甲斐。アンタ顔で売れるんだから、今度から保智に見つからないように攫われな。おっさんに『早く連れてって』とか言えばいいだけさ」 「数年後に帰ってくる時はきちんとお手当て持ってきて下さいな。顔だけは器量良しですもの、相当いいお給料になりますわよ」 甲斐はようやく苛められていると気付いて、保智を不安そうに見上げる。 「ヤス、外行きたい」 「もう日が暮れるし、お前また怖い目に遭うからやめた方が……」 「そと」 「……分かったよ」 本当は体中が痛んで動きたくなかったが、断ると泣き出しそうな相手に嫌とは言えない性格だった。一人で出歩かせれば今度こそ間違いなくどこかに連れて行かれる。 十歳にしては発育が遅く、母親の趣味でお稚児さんのように姉のお下がりの着物を着せられている甲斐は、人攫いや変態趣味の男の目に留まりやすいらしい。子供ながらに保智はそう思っていた。 しぶしぶ立ち上がると、唐人に蹴られたのか脇腹に鈍痛が走る。 「お外に行くなら、帯を直してあげなくちゃねぇ。甲斐、いらっしゃい」 甲斐の母がにっこりと手招きするが、甲斐は保智の袖を握って申し出を断った。 「帯いらないよ。ヤスみたいな着物が着たい」 「あらまあ、お姉ちゃんの綺麗な着物はいやかしら」 「なんで僕だけ由華ちゃんのお下がりなの? 隼人兄さんのは?」 「お兄ちゃんのはもう古いから捨てちゃったのよ。それにねぇ、甲斐。女の子みたいに可愛いのに、どうして男の子の格好したがるのかお母さん分からないわ」 「そうですわよ甲斐。ご自分の服が欲しいのなら、金平糖をくれる人攫いのおじさん達に買ってもらいなさいな」 甲斐がじわじわと涙を浮かべる横で、保智は頭を掻き毟って一人困惑していた。 |
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