雨 藍


八、


 『どうしてお前は友人を引き合いに出して角を立てるんだ』

 言うつもりはなかった。けれど言ってしまった。
 春樹たちとの別れが惜しかったのは本当だが、だからといって隠密衆を辞めて地元で暮らせと言われる筋合いはない。そこまでは我慢できていたのに。
 ついかっとなって反論した直後の甲斐の顔───傷つけたかもしれない。

 悶々としてろくに眠れず朝を迎えた保智は、隣の布団で眠っている圭祐を起こさないようそっと部屋を出て二階へ上がった。
 南部屋の最奥、甲斐と宏幸の部屋の前で立ち止まる。
 昨夜、江戸に着くなり「寄り道する」と言われて町中で別れた。酒場か郭だろうと思って荷物を預かろうとしたが、甲斐は目も合わせずにさっさと歩いていってしまった。


 降ったり晴れたり予測がつかない梅雨空のようで、機嫌の雨間を窺うのが難しい。
 機嫌を取るつもりはないが、自分の態度がそのつど甲斐をいらつかせているということだけは分かっていた。分かっていても結果的に機嫌を損ねさせてしまう。

 しかし別の見方をすれば、甲斐だけがそうやってぶつかってくる。
 春樹たちにしろ隠密衆の仲間にしろ、自分の足りない言葉や行為を自然に見つけて補ってくれるのだ。特に隆や圭祐は日頃から何かと気を配ってくれる。口下手な自分が誰とも衝突しないで済んでいるのは、ひとえに彼らの優しさに助けられているからだ。
 甲斐は違う。
 言葉が足りなければ露骨に不満を表し、行為が足りなければ全然足りないと催促してくる。

 甲斐だけなのだ、とまた己に呟いた。
 自分の甘さや欠点を厳しく指摘してくれるのは。


「あ? 何してんだヤス」

 はっとして意識を戻すと、部屋から出てきた宏幸が寝ぼけ眼で腹を掻いていた。

「あ……その、甲斐は」
「甲斐? 知らねーよ、おめーと一緒に帰ってこなかったじゃねえか」

 と言いつつ首だけ回して仕切り箪笥の反対側を覗き、「あー寝てら」と確認してくれる。
 ちゃんと帰ってきていたことに安堵し、それならいいんだと自室へ戻った。
 昼頃にでも謝ろう。




「ヤス。ちょっといい」

 小雨の降るなか自室の窓下に生い茂った雑草を毟り取っていると、いつの間に入ってきたのか甲斐が窓枠に腰掛けていた。
 雨が降っているのに外で何をしているのだと聞かれ、雑草取りだと答えると呆れたように溜息を吐かれる。見れば分かる、と言われてしまっては他に何と答えればよかったのか。
 まあいいと手を振った甲斐は、しかしすぐに口を開くでもなく黙っていた。
 用があったのではないのか。
 先に話しかけてもいいだろうかと微妙な間を計りつつ、鎌を置いて窓越しに向き直る。

「甲斐、昨日は悪かった。春樹たちが気に入らないのは分かってるよ。でも俺にとっては大切な友人で、隠密衆の仕事も半端な気持ちで続けてるわけじゃないんだ」

 毎年長崎の港を発つ時、来年も帰ってこられるだろうかと一抹の虚無感に襲われる。
 故郷で過ごす数日間が五体満足で生きている命を実感させてくれるのだ。
 生命の実感はやがて生活の充実感となって虚無を拭い去り、自分がいるべき場所を悟らせてくれた。何度でもこの実感を身に染み込ませて自分のやるべきことを成し遂げたい。
 甲斐を追って江戸に来ていなかったら、こんな経験は一生できなかっただろう。
 それなのに甲斐はまったく違う人生を歩んでいた。

「俺は、最後はお前と一緒に長崎へ帰りたい」
「……最後?」
「生きて引退したら、また昔みたいに向こうでお前と過ごしたいんだ。でもお前には前科があって、この仕事でしか罪を償えない。あとどれくらいで免罪になるのか知らないけど、それを当然の顔で受け入れてるお前が心配なんだよ」

 だから、自分は生きて隠密衆を引退するなんて考えてない、とでも言うかのような甲斐の物言いに腹が立ったのだ。
 浄正の恩情によって免罪の猶予を与えられたのなら、何年かかっても罪を清算して自由に辞められる日のことまで考えていて欲しかった。

「心配って…遠征に行くのも単発任務で免罪符を稼ぐのも、やってることは同じだヨ」

 何も不自由はないし好きなようにやっていると甲斐は言って、急に口元を押さえる。
 具合でも悪くて吐きそうになったのかと焦った。

「───いや、ゴメン。言い方が悪かった」

 俯いたまま突然しおらしく謝られ、むしろその変わりように内心焦る。

「ヤスがそんなこと考えてたなんて知らなかった」
「……そりゃ、言ったの初めてだし」
「なんで今まで言ってくれなかったの」
「えーと……それは」

 話す機会がなかったというか、話してもまともに聞いてくれそうにないというか。
 どういう場で話せばいいか分からなかったから、と正直に答えると、甲斐はやっと顔を上げてねめつけるような視線を送ってきた。

「でも引退して長崎に帰ったって、ヤスは春樹たちとも過ごすんデショ」
「あ、いやだから…たまにだよ。昔だって、たまにしかあいつらと遊ばなかっただろ」
「ふーん」

 途端に子供っぽい拗ね方をされ、独占欲の強さに苦笑する。
 甲斐にとって自分は取られたくない玩具のような認識なのだろうか。

「実家じゃ何だし空家でも借りて、猫が好きなら猫でも飼って、のんびり暮らそう」
「……ねえヤス。それって女に言う台詞じゃないの」
「えっ……!?」



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