雨 藍
七、
三日間滞在して長崎を発った時、春樹たちが揃って見送りに来ていた。
船が沖に出ても保智は未練がましく港を見つめたままで、そんなに別れが惜しいなら隠密衆など辞めて地元で暮らせばいいじゃないかと言ってやった。
もともと保智には隠密衆に入った明確な理由なんてないのだ。
本来なら極刑に値する前科者の自分と違って組織に繋がれているわけでもなく、似合わない仕事だと感じているなら尚更好都合だろうと条件を揃えてやると、珍しく反論された。
どうしてお前は友人を引き合いに出して角を立てるのだ、と。
それが元で、江戸までの長い時間を気まずい雰囲気でやり過ごす破目になった。
城下町に着くと気まずさは一層増したように感じられ、城には帰らず途中で別れてまっすぐ寶屋を訪れたのだ。
「幼馴染と友達の違いは何かって聞くけどさ」
団扇でそよそよと風を送りながら、千草がぽつりと言う。
「旦那が本当に知りたいのは、その幼馴染が誰より自分を愛してくれてるかどうかってことじゃないのかい」
「気持ち悪い言い方しないでくれるカナ」
「故郷のダチには笑顔を見せるのに自分には見せてくれない。自分といる時はちっとも楽しそうじゃない。俺はこんなに好きなのに、ってさ」
長い煙管に葉を詰め一服吸い込んだ千草は、気だるげな色香を滲ませてふーっと白煙を吐いた。
「せいぜいてめえの言動を省みることだね。お相手さんは愚直でマジメな御仁のようだし、あんたみたいな気分屋は一番相性が悪いんだよ。付き合えば付き合うほど疲れちまうのさ。そんでも避けられちゃいないってんだから、よっぽど忍耐力のある漢なんだろうねえ」
あたしだったら旦那みたいな幼馴染とはとっとと縁切ってダチ公を取る、とまくし立てられ、さすがに少し傷ついた。
だが千草の意見に否は唱えられず。
自分に対する保智の反応はたしかに疲れた様子が当てはまっていた。
時にうんざりした顔をしても無視はしない。
つつけば敏感に反応し、頼んでもいないことをしてきたりする。
それでいて周囲には時折見せる控えめな笑い顔を、自分には絶対向けてこない。
中途半端に拒絶されている気分だった。
近づいてほしくないなら顔を見るのも嫌だと言われた方がまだ納得できる。
保智の望んでいることがさっぱり分からないから自分を変えようがない。
「謝っておいでな」
千草は煙管を置いてひたと胸に手を乗せてきた。
冷たい手。遊女の手は皆冷たくて、肌に直接触れられると心なしぞっとする。
「気まずいまま逃げてきたってどのみち同じ巣へ帰るんだろ」
指先でトントンと胸の上を叩かれた。
「相手の心が知りたいならまずあんたが真心をお見せ」
「まごころ、ねえ……」
「嬉しい時は嬉しい、悲しい時は悲しい、恋しい時は恋しい───魂のド真ん中で感じた心をまっすぐ相手にブン投げりゃいいだけさね」
好意があるならちゃんと受け止めてくれる。
嫌悪しかないなら何も響かない。
愛情があるなら望んだ以上に何倍にもなって自分の心に返ってくる。
相手の心に耳を澄ませて、しっかり目を見開いて、真正面から向き合えば知りたい答えはおのずと分かるものだと。
「投げるだけ投げて背を向けるから、相手は戸惑うばかりで笑う余裕もないんだろうよ」
まるで最初から見ていたような千草の洞察力に完全にお手上げ状態だった。
千草とはほとんど付き合いがないのに、まして保智のことなど顔も知らないはずなのに。
こんな女は初めてで、感心すると同時に畏怖のような震えが身体の末端からじわじわと心臓に近づいてくるのを感じた。
その感覚はまさに船の上で保智に反論された時と同じもの。
心の奥底を見透かされたという羞恥と恐怖とが血脈に沿って全身を侵食してくる。
そうだったのか、と虚ろに目を瞬いた。
自分でもさんざん罵ってきたではないか。
いちいち悩まなきゃ何も言えないのか、なんて偉そうに。
戸惑いを招いていたのは他でもない自分だったのだ。
どんなに無口で口下手でも、保智にだって意思はある。
自分に対する保智の本心を知るのが怖くてただ逃げていただけなのだと気づいた。
「でも旦那からムカつく所を取ったら味気ないし、本当に必要な時だけ素直になりゃいいさ」
「その匙加減が分かってれば今ここで説教なんかされてませんヨ」
「あっはは、道理だね」
今から帰って乳繰り合うには遅いだろうからあたしで慰めておいきよ、などと茶化し始める千草の手を振り払い、膝に預けていた身を起こした。
昨日から梅雨入りしたようだと聞いた通り、しとしとと湿っぽい雨音が部屋に響く。
「そうだ。これあげる」
手荷物から小さな箱を取り出して千草の膝に放り投げた。
金箔入りの千代紙で飾られた、いかにも女が好きそうな菓子箱。
色とりどりの金平糖を見て生娘のように目を輝かせた千草は、しかし客として来る予定もなかったのに変だと気づいて誰かへの土産じゃなかったのかと尋ねてきた。
もちろん衛明館の侍女を釣る為に買ったのだ。だが千草を知ったらその気が失せた。
それを言うとまた余計な説教をされそうで、礼もそこそこに寶屋を後にした。
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