雨 藍


六、


 雨と土の匂いに混じって、むわっとした酒の匂いが辺り一面から漂ってくる。
 何事かと墓地を見回って進むと、真新しい墓石にもたれ掛るような格好で倒れている甲斐の姿があった。
 一瞬、最悪の状況を想像した。
 血臭はしなかったが、雨に掻き消されているだけではと。
 傘を放り捨ててすぐさま仰向けにすると、刀はちゃんと腰に収まっていた。妙な早とちりで肝を冷やした自分に呆れつつ、土砂降りの中でぐうぐう寝ている幼馴染の神経を疑う。

「甲斐。おい、大丈夫か」

 傍らに転がった徳利の栓はどこかへ消え、逆さにしてみれば一滴も残ってない。供えられた猪口の中身が雨か酒かも分からず、周囲から立ち込める匂いを察するに墓石に酒をぶちまけたようだった。
 甲斐の場合、飲みすぎて吐き戻すことはあっても酔っ払うことはない。
 何度呼んでも起きないのは泥酔ではなく、泣き疲れのようなものだろうと推測した。実際に泣いたかどうかは知らないが、精神的にはまだ辛いのだろう。


「嘘つき」

 急にそんな台詞を吐かれる。
 起きたのかと思えば目は閉じままで、しかし甲斐は自分で半身を起こした。

「嘘って、何が」
「会えなかった」
「誰に……?」

 ここで誰かと会う約束でもしていたのか?

「また会えるって言ったくせに。嘘つき」

 夢の話かと思いかけた時、ふっと脳裏に浮かんだ情景が今の言葉に繋がった。
 兄を看取った帰りの船でひっそりと涙を零した甲斐に自分が言ったのだ。
 また会えるよ、と。

「……ごめん」

 死者と会えるわけもあるまいに、そんな馬鹿げたことは本人も理解しているだろうに。
 甲斐がどれほど兄を慕っていたか知っている自分にはそれしか言えなかった。
 謝るくらいなら最初から無責任なことを言うなと罵られるだろう。
 殴りたければ殴られてもいい。
 何の根拠もない言葉でその場しのぎの慰め方をした罪悪感はあった。

「もういい。帰る」

 そう言いながら当たり前のように人の背中に圧し掛かってくる。
 傘を拾って手に持たせ、さほども背丈の変わらない男を背負って立ち上がった。昔は小さすぎて背中で支えるのに苦労したが、今は手足が長すぎて支えやすいというより持て余す。

 家に着くまで甲斐はひと言も喋らなかった。
 眠ってはいなかったようで裏口に着くとするりと背中から降りて戸をくぐり、泥だらけになった寝間着を脱ぎ捨てて頭から井戸水をかぶる。

「風呂、沸かそうか?」
「いらない」

 手拭いを渡してもろくに体を拭かず、部屋に上がって素っ裸のまま布団に入ってしまった。
 箪笥から適当な浴衣を引っ張り出して着せようとしたが、鬱陶しそうに拒まれる。
 こうなったら何をしても無駄だ。
 仕方なく自分も濡れた寝間着を着替えて土間へ寄った。
 雨の中で酒を飲んで寝ていれば明日はきっと熱を出すだろう。茶棚から解熱の常備薬をひとつ拝借し、桶と手拭いを用意して部屋に戻った。
 すでに寝息を立てている甲斐の枕元にそれらを置き、半分空けられた布団に潜り込む。
 背中越しに伝わる体温は低く、体が冷えているのが心配だった。掛け布団を包むように巻きつけ、濡れっぱなしの髪を手拭いで軽く拭きながらしばらく体を擦ってやる。

 酔いはとっくに醒めていた。
 春樹たちとのひと時が数日も前の出来事に思えるほど、甲斐の存在が自分にもたらす支配力というのは果てしなく大きいと痛感する。
 けして気持ちのいいものではない。本音を言えば疲れる。
 しかし振り回されているとは感じないのが不思議だった。
 慣れと割り切ってしまえばそれまでなのだが、もしも甲斐と同じ行動を春樹や誠二にされたらこんな風には対処できない。
 なんでだろうな、と自問しているうちに意識がふわりと途絶えた。



 翌朝。
 自分の盛大なくしゃみで目が覚め、隣を見ると甲斐はいなかった。
 掛け布団がこちらにかぶさっているということは、もう起きたのか。熱は?

「おはよう。布団独占しちゃったみたいで悪かったネ」

 縁側から現れた甲斐がこざっぱりした風体で入ってくる。

「ところでこれ何? ヤスが持ってきたの?」

 枕元の桶一式を指差し、明らかに分かっている顔で何に使うのかと聞かれた。
 いつも思うのだが、細身のくせにどうしてこいつは熱だの風邪だの身を患わないんだろう。
 心配して損したとは言わないまでも、なんとなく憎たらしい。

「……元気で何よりだ」

 言ったそばから二発目のくしゃみが出る。おまけに二日酔いで頭がガンガンする。
 起こした体を再び倒して唸ると、ひやりと冷たい感触が額に触れた。

「墓参りは済んだし、一日おとなしく寝てれば」

 手拭いを乗せてくれた甲斐はそれだけ言って部屋を出て行く。
 結局、今日の約束も反故(ほご)にしてしまった。
 夜中の雨が嘘のようにカラッと晴れた空を仰ぎ、酒臭かった墓を思い出す。雨に洗われただろうが、もう一度きちんと掃除した方がいいのではないか。

 半刻ほど頭痛が治まるのを待って居間へ顔を出し、とっくに終わった朝食の後片付けをしている母に甲斐の行方を尋ねた。

「おまえは二日酔いだから辰馬と墓参りに行ってくるって出掛けたわよ」
「え……」
「それより何、この泥だらけの寝間着。夜中に庭で喧嘩でもしたの?」

 そういえば土間の桶に自分たちの寝間着を浸けておいたのだ。
 曖昧に頷いて自分で洗濯すると言うと、当たり前だろと頭を叩かれた。





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